安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

わが身をたのむのが自力です(おしゃまさん、YGMさんのコメント)

おしゃまさん、YGMさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(信心決定なんかそんなに簡単にできることではない。でも、何十年かかっても求め抜こう。)
こう思う心は、「必ずただ今救うぞ」という阿弥陀仏の本願を否定している心なのですね?
この心は、本願を勝手にはからう“自力の心”なので、捨てなければいけないのですね?
(おしゃまさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100608/1275984238#c1275995920

(信心決定・・・求め抜こう。)という心は、阿弥陀仏の本願を否定している心でしょう。
しかし、それは『自力の心』というよりむしろ『間違った知識』ではないでしょうか。
弥陀の救いを聞かせてもらって、”何十年かかっても求め抜こう”というような発想は起こり得ないと思います。
あくまで阿弥陀仏が「必ずただ今救うぞ」のみで、私が求め抜くものではありません。
(YGMさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100608/1275984238#c1276040122

信心決定は、簡単にできるものではないというのは、私の側から言えば、簡単でないというより、できないことです。
しかし、なんとか救われようと思う心は、阿弥陀仏によって起こされた尊い聞法心でもあります。

簡単でないとか、何十年もかかるという前提は、阿弥陀仏の本願を否定する心です。
自力については、一念多念証文から紹介しますと

自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。(一念多念証文・註釈版聖典P688

阿弥陀仏をたのまずに、わが身をたのみ、我が心をたのみ、我が力を励み、様々な自分のやった善い行いをたのむ人のことを、自力といわれています。

本願を否定する心があるから、わが身をたのみにし、自分の力でなんとか解決しようという自力の心となって現れます。
自分の力でなんとかしようというのが、わが身をたのむ自力の心です。それは捨てものです。
「信心決定は簡単にできるわけがない」は、「本願を否定する心」と、「本願を疑う心」とが雑じっている表現です。
「でも、何十年かかっても求めぬこう」は、阿弥陀仏が起こして下さった聞法心と、自分で何とかしようというわが身を頼む自力の心が交ざっている表現です。

すてねばならないのは、自力であり、本願を疑う心です。
必ず、阿弥陀仏はただ今助けて下さいます。