安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「往生をばとぐるなりと信じて」のところで破闇光明に救われても、「念仏をもうさんとおもいたつこころ」が起こらなければ摂護光明に救われずに極楽に往生できないということなのでしょうか?(Wilou::Ji**コメントより)

Wilou::Ji** 2014/06/26 04:26
話題をぶり返して申し訳ないのですが、

親鸞会では、

1、調熟光明(遍照光明)
2、破闇光明(摂取光明)
3、摂護光明(摂取光明)

を教わったのですが、

弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。(歎異抄)

「往生をばとぐるなりと信じて」のところで

破闇光明に救われても、

「念仏をもうさんとおもいたつこころ」が起こらなければ

摂護光明に救われずに

極楽に往生できないということなのでしょうか?

未だに「ただ信心を要とすとしるべし。」の信心が

「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて」

までにしか思えず、

「往生をばとぐるなりと信じて」の「信」の字は何なのかと思ってしまいます。(Wilou::Ji**さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140621/1403321354#c1403724395

まず、親鸞会での光明の分類は一端忘れて頂いた方がお聖教を読まれるとき混乱しないと思います。

ちなみに浄土真宗辞典から光明の項目を引くと以下のようにあります。

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

こうみょう 光明
(略)
なお、浄土真宗では阿弥陀仏の光明のはたらきを、調熟(未熟の機を調育する)と摂取「念仏の衆生を摂め取って捨てない)との二側面から論じている。

そこで、コメント内のお尋ねについて書きます。

「往生をばとぐるなりと信じて」のところで破闇光明に救われても、
「念仏をもうさんとおもいたつこころ」が起こらなければ摂護光明に救われずに極楽に往生できないということなのでしょうか?(Wilou::Ji**コメントより)

結論から言いますと、「念仏もうさんとおもいたつこころ」が起きないということはありません。
その理由を書く前に、Wilou::Ji**さんがいわれる内容は、本願を信じたその刹那に命が終わったり意識不明の状態に陥りそのまま死んだらどうなるのか?という意味合いでいわれているのではないかと思います。(違っていたらすみません)そのような場合であっても浄土往生はさせていただけます。


そこで、先に書いた「念仏申さんとおもひたつこころ」が、起きないということはないについて書きます。


理由は、信心とは「本願を聞いて疑い無い」ことですから、本願の内容をそのまま聞き入れたからです。つまり、本願の内容そのものをいえば、以下のことを聞き入れたことです。

たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。(仏説無量寿経(上)第十八願文)
(現代語)
わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。

http://goo.gl/Mcm7o7

浄土に生まれたいと願い、わずか10回でも念仏してくれよが、阿弥陀仏の本願です。その本願を聞き入れるなら、念仏申さんとおもひたつこころが起きるのは当然です。


また、

未だに「ただ信心を要とすとしるべし。」の信心が
「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて」
までにしか思えず、
「往生をばとぐるなりと信じて」の「信」の字は何なのかと思ってしまいます。(Wilou::Ji**さんのコメント)

については、上記の信心の説明を読んでいただいたらわかると思います。

信心とは本願を聞いて疑いないことです。別の言葉でいうと、本願を信じたのが信心です。その意味で言うと「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり」という本願を「信じた」のが信心です。


上記のコメントに関連したコメント(2014/06/26 )

YGM 2014/06/26 09:03
「自力で往生とぐるなり」と思ったならば、阿弥陀仏をもうさんとおもいたつこころはおきないかもしれませんが、
「阿弥陀仏のお力で往生をとぐるなり」と信じたら、阿弥陀仏をもうさんとおもいたつこころが起こるのは当然ではないでしょうか?

私にとってはただ弥陀の慈悲が私をつつんでくださっていると思う一心から、「往生をばとぐるなりと信じて」も「念仏もうさんとおもいたつこころ」も起こっております。

有名なうたに
『みほとけを 呼ぶわが声は みほとけの われを呼びます み声なりけり』
とあるように、念仏は阿弥陀仏が私を呼んでいる声です。
そう思うと、往生をばとぐるなりと信じたWilou::Ji**さんに、念仏もうさんとおもいたつ心も起こっているのではありませんか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140621/1403321354#c1403741015