安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

“自力を離れ”たつもりが、実はまだ“自力の息の根を止めてなかった・・・”ということもあるのではないのでしょうか?(ちまきさんのコメント)

ちまきさん、淳心房さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

邪見憍慢悪衆生”に“何が自力か”正確にわかるのですか?
“自力を離れ”たつもりが、実はまだ“自力の息の根を止めてなかった・・・”ということもあるのではないのでしょうか?(ちまきさんのコメント)

正確にというのが、どの程度を指すのかは分かりませんが、何が自力かは分かります。そうでなければ振り捨てよとはいわれません。

自力については、親鸞聖人が御消息に言われている通りです。

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。(御消息1・浄土真宗聖典(註釈版)P746)

そこで、「自力を離れたつもりだけれども、実はまだだった」ということについて考えてみます。

一つ考えられるのは、「私はもう自力を捨てたから大丈夫だ」という場合です。この場合は、「『自力を捨てた我が身』をたのむ」姿ですから自力です。


別の言い方で、上記の御消息の少し後に、このように書かれています。

またわがこころよければ往生すべしとおもふべからず、自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり。(同上)

「わがこころよければ往生すべし」というのが、先に書いた「私は自力を捨てたからもう大丈夫だ」という心です。それは自力の計らいですから真実の報土へは往生できません。


人間の計らいには、思い違いや、失敗と言うことはあります。しかし、阿弥陀仏の本願には私を救う手立てがすでに成就しているので失敗と言うことはありません。


失敗を恐れる心は、阿弥陀仏の救いに自分の働きをすでに織り込んでいるからです。確認したくなる心も、自分の役割分担を最初から、「ここまでは自分の役割」と割り振ってしまっているからです。


失敗するもしないも、往生する上には私の働きはどこにも混じっていません。昨日のエントリーにも書きましたが、「まず、煩悩具足の凡夫と知らねばならない」とは、阿弥陀仏の本願にありません。
ちまきさんの場合でいえば、「まず自力が分からねばならない」ということはありません。「まず自力がわからねばならない」というのが自力だからです。
「まず自力が分からねばならない」という計らいから、自力を探しても「自分が思うような自力」は見つかりません。本願に対する計らいを自力というのですから、本願を抜きに自力だけを探しても自力はありません。


「自力が分かるところまでは私の仕事」と、自分の仕事を決めて、「自力が分かってから阿弥陀仏の本願に向かおう」と思うのは間違いです。

阿弥陀仏の本願力による救いですから、「ここまでは私の仕事」と決めているものを捨てて、ただ今本願力に救われて下さい。