安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

光明は分類できるのでしょうか?(のぞみさんのコメント)

のぞみさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

信前の私が今、安心問答で阿弥陀仏の本願を聞いて南無阿弥陀仏と称えているのも「阿弥陀仏のお働き」、そして信後の山も山さんが称えているのも「阿弥陀仏のお働き」ですよね。
「阿弥陀仏のお働き」という点で、一緒なんでしょうか。
調熟の光明とか摂護の光明とかと言って分類できるのでしょうか。
もし、全く一緒ですと言われるのならば、全人類は、信前と信後に分ける必要もなくなってしまうのでは思うのです。
そうすると、人間が「救われた」とか、「まだ救われてない」と言っているのは、ナンセンスかなと思います。
また、信前の親鸞会の人を哀れむ必要もないのかなとも思います。
人間側で阿弥陀仏のお働きを気づくか・気づいていないかとか、知らされているか・知らされていないかだけの違いならばですよ。(のぞみさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101023/1287821377#c1288014236

南無阿弥陀仏と称え、口から出て下さる南無阿弥陀仏は、どんな人が称えてもおなじ南無阿弥陀仏です。仏法を聞いたことがない人が、葬式に出かけて称える南無阿弥陀仏も、のぞみさんが称える南無阿弥陀仏も、私がとなえる南無阿弥陀仏も同じです。

仏法は、私一人のこととして、またお聖教の言葉は、その場にいる自分に書かれたこととして聞くものです。
光明に分類があるという件については、当事者として区別ができるものではありません。また、阿弥陀仏が信前の人に調熟の光明を放ち、信後の人にだけ摂護の光明を放たれているという区別をされているのでもありません。

自分は信前か信後かと、そればかりを問題にするのは、自分の機をみて信心の有無を判断しようという事になります。それはそのまま、阿弥陀仏の法に向いていないことになります。

阿弥陀仏の本願は、誰にでも平等に差別無く働いて下さいます。往生浄土の身になったとかならないというのは、こちらの側で疑っているか、疑いなく聞いているかの違いです。

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり
と信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。(歎異抄第1条・註釈版聖典P831

阿弥陀仏の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、嫌われません。浄土に生まれさせたいという願いは、差別無く願われています。阿弥陀仏の本願からいえば、信前だから哀れとか、信後だから素晴らしいという差別はありません。どんな人も、阿弥陀仏に願われている如来の一人子です。