安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「好きな時に好きなように念仏できない自分は、真実の信心が得られないのではないかと不安なのですが、自分は救われるでしょうか」(パロディさんのコメントより)

「好きな時に好きなように念仏できない自分は、真実の信心が得られないのではないかと不安なのですが、自分は救われるでしょうか」(パロディさんのコメントより)

パロディ (id:parotan) 2019-06-18 13:30:01

(略)
自分は持病があり、長時間なむあみだぶなむあみだぶなむあみだぶと何分間も腹いっぱい念仏することができません
どのように念仏しているかというと、1時間に1回ほど、思い立ったらなんまんだぶなんまんだぶと2,3回念仏しています
>したがって、一声の称名をも待つことなく、名号を信受すると同時に往生成仏の因は決定しますが、その信心は本願の誓いのとおり、必ず称名行として一生涯相続します。もし称名として相続しないような信心であれば、そのような信心は本願真実の信心ではありません。これを宗祖親鸞聖人は「真実の信心は必ず名号を具す」(真聖全二―六八)と仰せられています。

とあるように、好きな時に好きなように念仏できない自分は、真実の信心が得られないのではないかと不安なのですが、自分は救われるでしょうか

また、心の中で念仏することについていろいろ調べていたところ、法然上人の
「御無言めてたく候。たたし無言ならて申念仏は、功徳すくなしとおほしめされんはあしく候。」
という言葉が出てきましたが、これは無言でも心の中で南無阿弥陀仏と思っていればいいということでしょうか

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2019/05/09/212042

結論からいいますと、好きな時好きなように念仏できない方であろうと、救われます。念仏の回数や称える状況を阿弥陀仏の救いでは問題にされません。

そのことを一念多念証文ではこのように言われています。

本願の文に、「乃至十念」と誓ひたまへり。すでに十念と誓ひたまへるにてしるべし、一念にかぎらずといふことを。いはんや乃至と誓ひたまへり、称名の遍数さだまらずといふことを。この誓願はすなはち易往易行のみちをあらはし、大慈大悲のきはまりなきことをしめしたまふなり。(一念多念証文 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P685)
(現代文)
「無量寿経」の本願の文に、「乃至十念」とお誓いになっている。すでに十念とお誓いになっていることから、一念に限定するのではないと知ることができる。まして乃至とお誓いになっているのである。だから、称名の数は定まっていないと知ることができる。この誓願は誰もが浄土に往生することのできる他力易行の道をあらわし、如来の大いなる慈悲のお心がきわまりないことをお示しになっているのである。

https://bit.ly/2ZGOrBh

どんな人でも浄土に往生させてみせる、仏にしてみせるという誓いを阿弥陀仏は建てられました。その為に阿弥陀仏が、選び取られた行が称名念仏です。


そのため、回数を限定されず、何回以上称えた人でなければ救わないとは誓われていません。そのことを上記のご文では「乃至十念」と誓われていることは、阿弥陀仏の大慈悲の極まりないことをだと解説されています。


そして、南無阿弥陀仏は、私の口から称えられているものですが、私が称えた声ではなく阿弥陀仏の行そのものがあらわれておられるものです。


パロディさんは、今も念仏を称えておられます。その南無阿弥陀仏が私を救って下さるのであって回数や状況は問題ではありません。声に出さないから功徳がないというような、私の称えかたで阿弥陀仏の救いの働きが増えたり減ったりするものではありません。


救いの働きそのものは変化がないということは、いつでもどこでもただ今救って下さるというのがこの南無阿弥陀仏です。その南無阿弥陀仏が、私を救って下さる本願の行であると信じて称える人は必ず浄土に往生させていただきます。真実信心とは、この南無阿弥陀仏が私を救って下さるお働きであると、疑い無く聞き入れたことをいいます。ただ今救うという南無阿弥陀仏が、救って下さいますので、ただ今救われて下さい。