安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀仏は南無阿弥陀仏という声になられたの根拠とは」(猿松さんのコメント)

猿松  2019-05-03 09:43
(略)
今回「阿弥陀仏は南無阿弥陀仏という声になられた」と教えていただきました。
また他の聴聞でも「阿弥陀仏は真如法性の身を捨てて南無阿弥陀仏という言葉になられた」とも聞かせていただいたことがあります。

これらの根拠として「聞其名号」や「本願招喚の勅命」や「我が弥陀は名を以て物を接したまふ(教行信証行巻)」などがあげられると思いますが、より明確な根拠があれば御教示お願いいたします。

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2019/04/26/200310

記事を書くのが遅くなり申し訳ございませんでした。
直接の根拠としては猿松さんのあげられた根拠が一番分かりやすいものだと思います。
それ以外ということで、書いて見ます。

有名なのは、名体不二を書かれた安心決定鈔のご文です。

名体不二の弘願の行なるがゆゑに、名号すなはち正覚の全体なり。正覚の体なるがゆゑに、十方衆生の往生の体なり。往生の体なるがゆゑに、われらが願行ことごとく具足せずといふことなし。(安心決定鈔 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1386)

https://bit.ly/2JenksW

名体不二について、浄土真宗辞典から紹介します。

みょうたいふに 名体不二
「名」とは南無阿弥陀仏の名号、「体」とは南無阿弥陀仏の仏体のことで、両者は一つであって異なるものではないということ。南無阿弥陀仏の名号が阿弥陀仏という正覚の全体であり、名号を離れて阿弥陀仏の正覚がないことを示した語。(浄土真宗辞典

阿弥陀仏という仏と、南無阿弥陀仏の関係を考えると、阿弥陀仏と南無阿弥陀仏という声は別のように思う人もあるので、そうではないということを説明するために使われるのがこの名体不二です。ですから、南無阿弥陀仏とはただの阿弥陀仏の「名」ではなく、阿弥陀仏そのものです。
南無阿弥陀仏は、私が称えれば私の声にしか聞こえないという気持ちもよく分かります。しかし、私が称えても、その聞こえてくる「南無阿弥陀仏」は間違いなく「名号すなわち正覚の全体なり」です。阿弥陀仏は南無阿弥陀仏になられたというのはそういう意味で言っています。

もちろん名体不二ですから、阿弥陀仏と南無阿弥陀仏はどちらかだけという関係にはありません。