安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

私が、いまの私としてこの時代この場所に生まれてきたのも阿弥陀仏のお計らいです(頂いた質問より)

信心決定して、浄土に生まれる身になったならば、つらいことがあったなら早く死んだ方がいいように思いますが、いかがでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願は、本願を信じ念仏せよと誓われています。本願を信じよだけではなく、「乃至十念」と念仏をせよと誓われています。そのため、本願を信じたならあとは死んでもよい、早く死んだ方がいいというものではありません。本願を信じ、念仏しなさいと、称名念仏を勧められています。

乃至十念については、尊号真像銘文に書かれています。

「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。(尊号真像銘文)

http://1wv.j2.sl.pt

乃至十念の、乃至は「遍数の定まりなきほどをあらはし」とあり、数を定められないということです。何回でもいいから称えなさいといわれています。
私の命のある限りは、何回でも称えなさいということです。しかし、そうは言っても私は自分の命の長さを知ることも、決めることもできません。一回念仏をして死ぬ人もあるかもしれませんし、何十年も生きて数多く称える人も有ります。仮に一回だからといって少ないということもなければ、何万回も称えたから多すぎるということがないというのが、数を問わないということです。

ですから、念仏の数を問わないということは、その人その人の命のある限り称えよということです。命が延びれば延びた分、念仏しなさいとのお勧めですから、早く死んだ方がいいというものは、本願にはありません。

それでも、いろいろとつらいことが生きている間にはありますが、私が阿弥陀仏から賜るのは南無阿弥陀仏だけではありません。
私が、いまの私としてこの時代この場所に生まれてきたこの命も阿弥陀仏のお計らいで、賜ったものです。頂いた命を命の限り念仏して生きるのは、阿弥陀仏の願われている人生です。自ら死を選ぶのは、その阿弥陀仏の願いに反することになります。自分の人生だから、どう使おうと勝手だと思う人もありますが、そうではありません。阿弥陀仏から頂いた命ですから、命の限り生きて念仏してください。