安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀仏の一方的お育てが完了してないと本願まことと信じる不思議な心(信楽)を得られないんではないですか?」(bibiさんのコメントより)

bibiさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

bibi 2017/03/06 12:29

この方のブログ拝見して気付きました
1-20.本願まことと信楽不思議 - なもあみだぶのつぶやき部屋


昔から信心決定された方が当たり前のように言うことが理解できず、どのようにそう感じるのだろうと不思議で、獲信できないことはそこが理解できないからと悶々と格闘していたんですが、
阿弥陀仏の一方的お育てが完了してないと本願まことと信じる不思議な心(信楽)を得られないんではないですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170302/1488455135#c1488770976

阿弥陀仏のお育てというのは、時間がかかるといえばかかりますが、少なくとも現在念仏する人はもうお育ては完了してるといっても問題ないと思います。
ですから、すでに念仏する人の中で、すでに信心獲得している人と、そうでない人の差は阿弥陀仏のお育て云々に関してはないに等しいです。

では何が違うのかといえば、本願を聞くか聞かないかということです。別の言葉でいえば、信ずるか疑うかの違いです。

こう書きますと、その「聞く」にもお育てが必要なのではないか?と思われるかもしれません。私も以前はそう思っていました。しかし、未だ聞いたことのない救いを聞くのであれば、「自分はまだだ」という理屈も成り立ちますが、すでに救いの法を聞くご縁にあっている人には、これ以上のお育ては必要ありません。

強いていうならば、「自分はまだ助かってはいけない」と自分で思っている心が、「まだお育てが終わってない」と考えさせるのではないでしょうか?私自身も含めて、いろんな人にお会いしてきました。また、いろいろとお話しもさせて頂きました。そこから感じたことは、「自分は助かるべき人間ではない」との思いをもっておられる(おられた)人が割と多くおられるのではないかということです。

そういう人には阿弥陀仏は、「お前を助ける」といいながら「お前はもう助かってもいいんだよ」と寄り添って下さいます。もう自分を傷つけたり、さげすんだりする必要は阿弥陀仏の救いには必要ありません。貴方は救われてもいい人なのだと、常に呼びかけ働いて下さっているのが南無阿弥陀仏です。

阿弥陀仏は、世の中の人がいうように「自信を持て」とか「自分を信じろ」とはいわれません。阿弥陀仏の仰せは「私(阿弥陀仏)が信じるお前(貴方)を信じろ」といわれているのです。阿弥陀仏から見れば、私は「必ず浄土往生し仏になるもの」なのです。その阿弥陀仏が信じられているように「私は、浄土往生し仏になるのだ」と聞いて信じたのが信心といいます。そこには、私の目から見た私の能力や人格や性格や性別や年齢も関係ありません。阿弥陀仏が見られたように、私は浄土に往生させて頂けるものと聞き入れるだげです。

獲信者が当たり前のように話す事柄もその信楽あっての前提で無自覚で話されている。
しかしその心は説明することが不可能とブログの方が言われてます。

素地が出来てないといくら頑張っても救いは得られないんだとおもいます。
素地の出来ている人には弥陀にお任せするだけだ簡単に助かると言えるが
それ以外の人にはどうにもならない言葉になるんでしょう。
ある種選民的なところがあるかもしれない。

おそらく全ての人を救うといっても現時点だけ考えると数的に限界があるんではないでしょうか?
環相が増えるとその数も増えるのかもしれない。
自分はまあお育てを待つしかないです。(bibiさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170302/1488455135#c1488770976

お育てを待つ必要はありません。なぜなら、もう十分に育っているからです。
そういう意味で、阿弥陀仏の救いをどうか遠くに置かないで下さい。貴方が救いはまだ先と思うのは、貴方がそう信じているからだと思います。ですが、阿弥陀仏の救いに関しては自分を信じないで下さい。繰り返しになりますが、自分が見る自分を信じるのではなく、阿弥陀仏が信じられている私を信じて下さい。 

(38)
如来の作願をたづぬれば
 苦悩の有情をすてずして
 回向を首としたまひて
  大悲心をば成就せり(正像末和讃)

https://goo.gl/4o6VPJ

阿弥陀仏は、「救って下さい」と思う人、待っている人にはすでに寄り添って下さっています。もう待つ必要はありません。ただ今救われて下さい。貴方に対して「まだだ」というのは、貴方以外には誰もありません。