安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「(略)救われる為に念仏を称えようとすることは、『何かをしようと思わない』に反するのでしょうか。」(Peingに頂いた質問)

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Peing 質問箱より

2021-01-03のエントリーで、『もろもろの雑行をなげすてて』というのは「そもそもしない」「何かをしようと思 | Peing -質問箱-

Peing質問箱に頂いた質問です。

「○○をしてから救われよう」になってしまいます。これではいたちごっこというか、ずっと救いとは平行線のままのように思われます。(頂いた質問) - 安心問答−浄土真宗の信心について−
についての質問でした。

これについては、以下のように書きました。

「雑行を捨てて」と「弥陀をたのむ」はともに同じことを言われているものですから、どちらも自力ではできません。「何かをしようと思わない」と書いたのは、「助けるという阿弥陀仏の仰せに従う」ということです。
救われる為に念仏するというのは、「念仏するものを救う本願」を信じ念仏するということです。ですから、「念仏するものを助けるという本願の仰せに従う」ということですから、「何か(別のことを)しようと思わない」ことになります。

これに加えて書きます。
「何かをしようと思わない」というと、「『何かをしようと思わない』と思う」ことによって救いの足しにしようと考える人もあると思いますが、そういうことではありません。


「何かをする・しない」ことによって、自分は正しい道を歩んでいると考え、そんな自分を信じている状態を雑行雑修自力の心と言われます。言葉を替えると自分をたのみにしている状態です。

質問の文章にあるように「何かをしようと思わない」ことによって、間違いのない、たのみとなる人間になるのではありません。「何かをする・しない」ことによって、助かろうとするのではなく、助けるという阿弥陀仏の仰せに従うよりありません。自分でなんとかしようとする自力はなげすてていくものです。


その自力を捨てるということについて、唯信鈔文意から引用します。

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。(唯信鈔文意・浄土真宗聖典註釈版P707)

http://ur2.link/090Y

「みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず」と書かれています。自分がこうすれはよいと思う心を捨て、我が身をあてにせず、また悪い心も顧みないことだということです。


念仏についても、「救われる為に念仏を称えよう」というのは、私がそうすることによって救われようと思えば間違いとなります。「無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり」と書かれていますように、本願・南無阿弥陀仏を疑い無く信じるのが救いです。


「念仏するものを救う本願」と聞いて疑い無く「これが救いの法だ」念仏する上では、「私があれこれして助かろうと思わない(何かをしようと思わない)」ということになります。


阿弥陀仏は本願で、私に対して「自分を信じろ」とは言われません。「阿弥陀仏をたのみとせよ」と言われています。「我をたのめ必ず救う」の仰せが南無阿弥陀仏ですから、ただ今助けると聞いてただ今救われて下さい。