安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

なかなか自分は救われないと思っている人が実は実は一番「自分は救われる」と思っている(頂いた質問より)

「阿弥陀仏の本願はどんな人でも助けてくださる」と聞きますが、自分はなかなか救われません。とはいえ、それで焦る気持ちもなかなか起きません。どうしたらいいのでしょうか?(頂いた質問)

まず、「阿弥陀仏の本願はどんな人でも助けて下さる」という点について書きます。正確にいうと「阿弥陀仏の本願はどんな人でも助けて下さる」のではありません。

本願を信じ念仏を申さば仏に成る(歎異抄第12条)

http://goo.gl/OteMd3

とあるように「本願を信じ念仏する者」は、どんな人でも助けて下さるということです。言い替えると「本願を信じ念仏する人」は無条件に救う本願ですが、「本願を信じない、念仏しない人」は助けられないということです。

こういうと「いやいや、阿弥陀仏の本願は悪人正機なのではないですか?」という人があります。確かに「悪人正機」と言う言葉はありますが、それは「悪人であるということを条件に優先的に救う」という意味ではありません。あくまでも阿弥陀仏の本願は「十方衆生」を救う本願ですから、最初から差別はありません。「悪人正機」というのは、「自分は悪人であり救われないものだ」という「悪人」が、「善人にならねば助からないのだろう?」と嘆くことに対して「善人優先の救いではない」と阿弥陀仏が仰ったことです。それを歎異抄には書かれています。


ですから、阿弥陀仏の救いはあくまでも「善人・悪人」という区別でいうなら「区別はない」ものです。それに対して「自分はなかなか救われないものです」というのはすでに「自分は救われ難いもの(悪人)」と自分自身を区分している発言です。しかし、こういうことを言う考えの根底には「救われ難い者(悪人)だから、きっと阿弥陀仏は助けて下さるのだ」というものがあります。

これは、過去私がいた団体で考えていたことです。自分自身を「救われがたい者(悪人)」と規定することで「そんな私こそ阿弥陀仏の本願の正客」と考えていました。


しかし、この考えはよくよく考えて見ると、「私は可哀相な者です。どうか阿弥陀さま助けて下さい」という「助けてアピール」以外の何ものでもありません。それは、阿弥陀仏のお慈悲に甘えて、かつ、阿弥陀仏の大慈大悲心を試そうとしているのです。言い替えると、「私はなかなか助からない者です」けれど「阿弥陀仏は結局のところは助けてくれるんですよね?」といったところです。

これは、阿弥陀仏の慈悲心を逆手にとって「私を助けたいのでしょう?なら、『私の望み通り』助けなさい」と言っているようなものです。弱い自分と自分自身を思い込ませて、阿弥陀仏を欺こうというのですからそれは救われがたいものだと思います。

私がどうこう思おうとも「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」のが阿弥陀仏の本願です。仰せの通りに、自分がどういうものであるかということは忘れて、本願を信じ念仏してください。