安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「「いつか浄土というふるさとに帰れるのだから今は我慢しなさい」と、もっと言うなら「世界には貧困や飢えでくるんでいる人がいるのだからそれに比べてたらマシ」というような論理と変わらないのではないか?と感じ始めたからです。」(求道者Kさんのコメントより)

生もご縁、死もご縁です。私は母から生まれたがそれもご縁の一つに過ぎない。ガンジス河の砂の数ほどのご縁が私を成り立たせている。だから娑婆の縁尽きれば去っていくのみです。そういう意味でいのちは平等です。縁において生起し、縁において去る。生まれが平等なのにどうして生き様でや死に様で去ることに差が生まれましょうか。そういう縁のもとの世界が海なら、人のいのちは波にたとえられますね。海から生まれ海に還っていく。
よって浄土教ではその海を「浄土」と称しているだけであり、どんな方でも往生浄土は自然な事なのではないでしょうか。(求道者Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20161125/1480076105#c1480120871

これに関しては、前回のエントリーに書きました。自然の浄土といわれる「自然」は無為自然のことなので、「どんな方でも往生浄土は自然な事」ではありません。

では仮にそれがそういうことだとすると、その「往生浄土」という救いと「今」がどう結びつくのかが問題です。「往生浄土」の確信が「今」だとしても、往生は未来のことであり、今目の前の悩み苦しみに向き合う力になるのかに疑問があります。それは今と往生浄土の比較論であり、まるで「いつか浄土というふるさとに帰れるのだから今は我慢しなさい」と、もっと言うなら「世界には貧困や飢えでくるんでいる人がいるのだからそれに比べてたらマシ」というような論理と変わらないのではないか?と感じ始めたからです。(求道者Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20161125/1480076105#c1480120871

これに関して、未来の往生と、今の目の前の苦しみに向き合う力の関係についてのご意見だと受け取りました。求道者Kさんのいわれるような疑問は、私も以前ありました。確かに、往生浄土が定まっていても現実問題がなくなく訳ではありません。「未来に救いがあるから、今は耐えていけ」では、特に現代の人は納得できない人も多いです。

阿弥陀仏に救われる、信心決定、信心を賜るなどいろいろと言いかたはありますが、信心という言葉が持つイメージから、先のような疑問は起きていたのだと後で分かりました。それは、阿弥陀仏に救われたら「私は往生間違いないと私が信じられるようになる」と思っていました。しかし、本来は阿弥陀仏が私の往生は間違いないと信じられていることを受け入れることです。言い替えると、阿弥陀仏が私を信じられていることを聞き入れることで、私は始めて往生が定まると信じるようになります。


それについて親鸞聖人は阿弥陀仏の本願の三心(至心、心行、欲生)について以下のようにいわれています。

あきらかに知んぬ、至心は、すなはちこれ真実誠種の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。
信楽は、すなはちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。
欲生は、すなはちこれ願楽覚知の心なり、成作為興の心なり。大悲回向の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。
いま三心の字訓を案ずるに、真実の心にして虚仮雑はることなし、正直の心にして邪偽雑はることなし。まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。(教行信証信巻)
(現代文)明らかに知ることができる。「至心」とは、虚偽を離れさとりに至る種となる心(真実誠種の心)であるから、疑いのまじることはない。「信楽」とは、仏の真実の智慧が衆生に入り満ちた心(真実誠満の心)であり、この上ない功徳を成就した本願の名号を信用し重んじる心(極成用重の心)であり、二心なく阿弥陀仏を信じる心(審験宣忠の心)であり、往生が決成してよろこぶ心(欲願愛悦の心)であり、よろこびに満ちあふれた心(歓喜賀慶の心)であるから、疑いがまじることはない。「欲生」とは、往生は間違いないとわかる心(願楽覚知の心)であり、往生成仏して衆生を救うはたらきをおこそうとする心(成作為興の心)である。これらはすべて如来より回向された心であるから、疑いがまじることはない。
いま、この三心のそれぞれの字の意味によって考えてみると、みな、まことの心であって、いつわりの心がまじることはなく、正しい心であって、よこしまな心がまじることはないのである。まことに知ることができた。疑いのまじることがないから、この心を信楽というのである。

阿弥陀仏が本願で願われた三心とは、すべて真実の心であって、阿弥陀仏から回向される心です。往生間違いないというのも、阿弥陀仏が私の往生は間違いないと疑い無く信じられているから起きる心です。


私自身も自分が往生できるとは、本来思ってもいないですし、また、法を聞き始めてもなかなか信じられないものです。しかし、そこでいくら「自分で自分に私は必ず往生する」と信じようとしてもとても信じられるものではありません。仮に阿弥陀仏から「自分を信じろ」といわれても出来るものではありません。例えば、受験にしろなにかのスポーツの試合の前に、「自分は大丈夫だ」と自分に言い聞かせても、家族から「自分を信じろ」といわれても安心できないのと同じです。つまり、未来のことを自分で信じようとしても、他人から信じろと現実は何も変わりませんから、そこには安心もありません。


ですから、未来は大丈夫だと信じたとしても、あまり現実の安心とはつながらないのではないかと考えてしまいます。また、阿弥陀仏に「自分を信じろ」といわれても、なかなか信じられるものではありません。


そこで、阿弥陀仏は「貴方が浄土往生することを疑い無く信じています」という信心を私に差し向けて下さっています。言い替えると、「貴方は浄土往生できると信じています」と常に仰っているということです。「阿弥陀仏に私は信じられている、しかも疑い無く」ということです。それを聞き入れる人は、「阿弥陀仏に信じられている人」となるので、それを信心決定といいます。
未来の往生浄土のことではありますが、今日的な言い方をすれば、「私を疑い無く信じて下さる方がおられる」という信心は、現在のことですし、それが現実の問題に対して私を動かしたり、支えてくださることになります。


「往生浄土の確信」というよりは、「私の浄土往生を疑い無く信じて下さる阿弥陀仏がおられる」ところに信心も、安心もあります。どこどこまでも凡夫である私にしてみれば、どんなことより「私の浄土往生を疑い無く信じて下さっている」ことが、私を支えて下さいます。私が信じる以上に、それよりも遥かに強く疑い無く私の浄土往生を信じて下さるのが阿弥陀仏です。その阿弥陀仏の「私を信じる力」によって私もそれをその通りと受け取ります。もちろん、私に能力があって浄土往生するのではなく、全ては阿弥陀仏のお計らいによるものですが、その上で「貴方は浄土に往生しますと信じています」と言い切られるのです。


考えて見ると、この娑婆世界において私を疑い無く信じている人はほとんどありません。そんな人に会えた人は幸福な人でしょう。真宗では阿弥陀仏を親さまとよくいいますが、疑い無く信じるという意味では、赤ちゃんが親を信じるように、私の浄土往生を疑い無く信じて下さるのが阿弥陀仏です。それだけ信じられていることによって、私は「信じられている」という信心が決定します。
それが、現実の問題になにか影響があるのかといえば、少なくとも「誰かに疑い無く信じられている人」と「誰からも信じられていないと思っている人」は違います。現実の問題に影響があるかとすれば、その点です。
それ以降の求道者Kさんのお尋ねについては、次回に書きます。遅れ遅れになって申し訳ございません。