安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「真宗は往生即成仏と説くのに、なぜ中陰があるのですか。」(wmさんのコメントより)

wmさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

wm 2017/03/09 10:47
このブログを偶然見つけ、質問させていただきます。
真宗は往生即成仏と説くのに、なぜ中陰があるのですか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170307/1488873220#c

まずお尋ねの中陰についての意味から紹介します。

ちゅう‐いん【中陰】
〖名〗仏語
(1)ちゅうう(中有)
→衆生が死んでから次の縁を得るまでの間。四有の一つ。無限に生死を繰り返す生存の状態を四つに分け、書状の生を受ける瞬間を生有、死の刹那を死有、生有と死有の中間を本有とし、死後次の生有までを中有とする。中陰。
(2)人の死後四十九日の間の称。人は死後七日を一期としてまた生を受けるという。極悪・極善の者は死後直ちに次の生を受けるが、それ以外の者は、もし七日の終わりにまだ生縁を得なければさらに七日、第二七日の終わりに生を受ける。このようにして最も長い者は第七期に至り、第七期の終わりには必ずどこかに生じるという。
小学館 精選版日本国語大辞典

そこでお尋ねの、「真宗では往生即成仏を説く」についてですが、あくまでも浄土往生したひとは速やかに成仏するということであって、真宗門徒に名前を連ねている人がもれなく全て浄土往生するわけではありません。


真宗の教えでは、阿弥陀仏の本願を信じ念仏する人は必ず浄土に生まれます。ですから、本願を信じない人は浄土に往生することがありません。そのため、そういう人には中陰ということがあります。


では、浄土真宗の葬儀はそのように、浄土往生していない人がいる前提で、その供養の為に行われているのかといえばそうではありません。本来、浄土真宗での葬式法事は、儀式伝道と定義されています。

それに付いては、中央仏教学院のテキスト「伝道要義」から紹介します。

真宗の儀式はすべて仏徳讃嘆の意味をもっている。葬儀式といえども仏徳讃嘆の儀式である。葬式仏教という言い方で批判されるのは、葬儀式を批判しているよりも、僧侶がその儀式の意味を忘れてただ儀式張る(わざと体裁をつくって堅固に形式ばる」からである。
(中略)
真宗における儀式は如来大悲を仰ぎ仏恩報謝の儀式であるからこそ、儀式伝道といえるのである。このサシガネを軽視すると、位牌や護符を認めてしまう宗門になってしまうであろう。
(中略)
また葬式についても「没後葬礼をもて本とすべきやうに衆議評定する、いはれなき事」と記されている。これとて葬式無用論者のそれではない。儀式の意義即ち往生の信心を忘れて、単なる行事にしてしまっていることへの批判である。我々は伝道を考える場合、もっと儀式で表現されている教義的内容を問わねばならないのである。
(中央仏教学院テキスト 伝道要義P79)

もともと中陰といって死後七日毎の法要は、浄土真宗に限らず日本の風習としても定着していたものでした。それらの葬儀式を縁として仏徳讃嘆し、また参加者に法を伝えて行こうという伝道の場が元々の目的でした。

もっとも、必ずしも全ての葬式や法事が上記のようになっていない場合もあるかと思います。私もそういう意見は耳にしたことがあります。本来の意義が伝われば、お尋ねの疑問も解消されるのではないかと思います。