安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀仏に救われたい心が強い人は、そのままがきけません。どうしても無理です。」(中学生さんのコメント)

中学生 2021-11-17 05:19:11
阿弥陀仏に救われたい心が強い人は、そのままがきけません。どうしても無理です。

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2021/10/27/204247

中学生 2021-11-17 19:11:49
病気の人に治りたい心をなくせと言われてなくせるものでしょうか。無常と罪悪にさいなまれている人に救われたい心をなくせと言われてなくせるものでしょうか。それは無理だと言っているのです。人間なら理解いただけると思ったのですが、違いますか。こころをごまかさずに見てください。自分で自分の心を機械を動かすように動かすことはできないと言っているのです。無常と罪悪にさいなまれたことがないのですか。

コメントの内容からすると、「自分の心で思っていることを思わないようにしろと言うのは無理ではないか」と言うことだと思います。
また「どうしても無理です」と書かれているので、実際に試みてのことだと思います。実際に、人間に「自分で思う事を思わないようにしろ」といわれても無理な話です。

「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて」と蓮如上人が書かれているのは、「それが自分の力でできるからやれ」といわれているのではありません。「自力を捨てて」と「弥陀をたのめ」はいつも一つの文章として書かれています。

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。(領解文 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P1227)

これは「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすて」ることによって「一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみ」になるのではありません。自力を捨ててと弥陀をたのむは同じことをあらわしておられます。時系列での順番ではありません。


そのため,この領解文と逆の順番で親鸞聖人が書かれたものもあります。

本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ。(唯信鈔文意 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P699)

「本願他力をたのむ」ままが「自力をはなれたる」という「信心」のすがたです。
「自力を捨てたのが信心」とは言えません。それでは、言葉が足りません。あくまで、阿弥陀如来の仰せをそのまま受け入れた事をもって信心といいます。

もともと「信心」のことを、阿弥陀仏の第十八願では「信楽」といわれています。その「信」の字について、親鸞聖人は教行信証のなかに

信とはすなはちこれ真なり、実なり、誠なり(顕浄土真実信文類 (本) - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P230)

と書かれています。

「信」とは、人の言葉にウソ偽りがないことを指す言葉です。それが「真」であり「実」であり「誠」という意味になります。しかし、そんなものは人間の言葉や心にはないものですから、ここでいわれる「信」や「信楽」といわれるのは阿弥陀如来のお言葉であるといわれています。

そのウソ偽りのない阿弥陀如来のお言葉を聞いて、それを疑うという事は仏様に対してとても失礼なことでもあります。ですから、如来の仰せは私の方で疑いを交えず仰せの通りに聞くものです。そうして「こちらの疑いを交えない」という「無疑」をもって信心の定義とされたのが親鸞聖人です。

「無疑心」といった時には、その前提として「如来の仰せ」があり「それをそのまま受け入れる」という意味があります。

中学生さんが書かれいる内容は、如来の仰せを横に置いて、自分の心にばかり向き合っているように見えます。自分の心は、一番目に付きますし気になるのも分かります。しかし、どれだけ自分に向きあったとしても、それで何かが生まれるということはありません。

信心というのは、自分の心と戦った結果得られるものではありません。

それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。(顕浄土真実信文類 (本) - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P209)

ここでも「如来選択の願心」によって起こされるものだと書かれています。
「選択の願心」というのは、阿弥陀仏が法蔵菩薩であったときに、五劫思惟されて私を救う道を考えられた時に、救いの行を選択されたことをいわれたものです。自力の行は選び捨てられ、念仏を往生の行として選び取って私に与えてくださるというのが「選択の願心」です。その阿弥陀仏の大慈悲の願心を聞いて、南無阿弥陀仏の救いを聞き入れて疑い無いのが信心です。


「疑うな」とか「自力を捨てて」というのは、この阿弥陀仏の仰せを聞きなさいということです。私の思いをどうにかするのではなく、阿弥陀仏のただ今助ける南無阿弥陀仏を聞き入れなさいということです。

私にできない事をしろといわれるために、五劫も思惟されたのではありません。ただ「必ず助ける・ただ今助ける」ための阿弥陀仏のご苦労です。私に苦労をさせるためる阿弥陀仏の兆載永劫のご苦労ではありません。

今までの考えでは望みの糸は切れて見えるでしょうが、救いの仰せは常に今も貴方に届いています。南無阿弥陀仏が私を救うという阿弥陀仏の仰せです。その南無阿弥陀仏にただ今救われてください。