安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「命を放り出してまで、南無阿弥陀仏に帰命出来ない私は仏様の救いに逢うことは終に出来ないのでしょうか?」みそみそさんのコメントより

みそみそさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

みそみそ 2016/07/01 20:13
ありがとうございます。

信心決定の為には南無阿弥陀仏のおいわれを聞くしか無いのですが、
聞けども聞けども聞くことが出来ません。

聞けば聞くほどお伽話や神話のように思えてきて現実味を失ってきてしまいます。
聞けども聞けども疑いの心が沸き起こり、聞くことの出来ない自分と言うものを突き付けられて、どうにもこうにも前に進めません。
仏書を読んでも法話を聞いても、右から左で何一つ自分の中に響いて来ません。
よく、仏法を聞くために法座に足を運べるの、は自分の意志によるものではなく、全て阿弥陀様のお計らいによるものだと聞かされていますが、せっかく阿弥陀様の縁で法座にまで向かったにも関わらず、仏法を聞けない私がここに向かい、ここに座っていることに何の意味があるのだろう?
阿弥陀様に申し訳ないやら、何も得ることが出来ないまま、法座を終えることに途方も無い虚しさを感じております。

また、「罪悪感や無常観」を感じないと救われないと聞きましたが、聞いても聞いてもそんなものはかけらも感じられません。「仏法でそう説かれているからそうなんだな。」と思うのがやっとで、「自分は今晩にも死ぬかもしれない」「地獄行きの種しか作れない悪人だ」とは毛頭思えません。悪を恐れる気持ちも、死を恐れる気持ちも毛頭沸き起こってきません。

そして、自分の中の自力を捨てるのが死ぬよりも辛いです。
自分の人生に夢も希望も持てなくて、阿弥陀仏様の救いに逢うことだけが人生の唯一の希望です。
ただ、その「助かりたい」という思いすら自力で、それを捨て去らねばならないというのならば、
それは私にとって「死と同義です。」阿弥陀如来様に命を投げ込めと言いますが、命を投げ込めません。南無阿弥陀仏に命ごと飛び込んで行けません。

信心決定出来るものは「国に一人、群に一人」「極難信」と言われているのですが、阿弥陀如来様の救いに逢うことはそこまで難しいことなのでしょうか?
つまりそれだけ私が助かる可能性は低いのでしょうか?
また命を放り出してまで、南無阿弥陀仏に帰命出来ない私は仏様の救いに逢うことは終に出来ないのでしょうか?

どこまでもどこまでも自分には自力壁が立ちふさがりどうしても阿弥陀如来様の御声を聞きひらく事ができません。

南無阿弥陀仏を心得る為にはまだまだ真剣で命懸けの聞法、求道が必要なのでしょうか?

そもそも私に南無阿弥陀仏を聞く縁手がかりがあるのでしょうか?
このまま阿弥陀様の救いに逢うことが出来ず、「生死の苦海辺りなし」の世の中で七転八倒し、のたうち回って苦しみながら死んでゆくのが私の今生での定めなのでしょうか?

果たしてどれだけ仏法を求め続ければ、阿弥陀如来様の救いに逢うことが出来るのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160622/1466596475#c1467371606

複数の質問を頂きました。一つ一つ答える前に、最初に全体としての結論をいうと、みそみそさんが「救われない」なんてことはありません。阿弥陀仏の本願力は、みそみそさんを救う力があります。

その前提の上で、一つ一つ回答を書きます。

信心決定の為には南無阿弥陀仏のおいわれを聞くしか無いのですが、
聞けども聞けども聞くことが出来ません。

聞けば聞くほどお伽話や神話のように思えてきて現実味を失ってきてしまいます。

これに関してはよくわかります。
ただ、みそみそさんは、南無阿弥陀仏のいわれを「話」として聞いているのではないでしょうか?
南無阿弥陀仏の言われは、神話のような「特定の宗教を信じる人にとっての真実」ではありません。信じようが信じまいが、私を助ける法なのです。人間の心臓が一つであることが、宗教的信条によって変わらないのと同じことです。
単なる「話」ならば、信じるか信じないかの二者択一になりますが、南無阿弥陀仏のいわれは、信じていない人にも働いています。

話として聞くのではなく、すでに現実にある救いのお働きだという前提で聞いて下さい。

阿弥陀様に申し訳ないやら、何も得ることが出来ないまま、法座を終えることに途方も無い虚しさを感じております。

そのように感じられるのであれば、何も感じないことはないと思います。


また、「罪悪感や無常観」を感じないと救われないと聞きましたが、聞いても聞いてもそんなものはかけらも感じられません。「仏法でそう説かれているからそうなんだな。」と思うのがやっとで、「自分は今晩にも死ぬかもしれない」「地獄行きの種しか作れない悪人だ」とは毛頭思えません。悪を恐れる気持ちも、死を恐れる気持ちも毛頭沸き起こってきません。

「罪悪観や無常観を感じないと救われない」という説は、間違いです。なぜなら、現にそれを感じないというみそみそさんが居られるからです。全ての人を救う阿弥陀仏の本願ですから、当然「罪悪観や無常観を感じない」人も救いの対象です。

そして、自分の中の自力を捨てるのが死ぬよりも辛いです。
自分の人生に夢も希望も持てなくて、阿弥陀仏様の救いに逢うことだけが人生の唯一の希望です。
ただ、その「助かりたい」という思いすら自力で、それを捨て去らねばならないというのならば、それは私にとって「死と同義です。」阿弥陀如来様に命を投げ込めと言いますが、命を投げ込めません。南無阿弥陀仏に命ごと飛び込んで行けません。

阿弥陀仏の救いは、私の何かの犠牲の代償として与えられるものではありません。漫画「鋼の錬金術師」の等価交換の法則はここではあてはまりません。(分かる人だけ分かって頂ければいいので、あまり詳しく説明はしません。)何かを獲るためには、何かを捧げなさいというようなものは、阿弥陀仏の本願ではありません。どうにもならない私を救う為に、私の願いに先立って救うと願われた本願ですから、私に要求されることはありません。

そもそも、阿弥陀如来の他力本願をばなにとやうに信じ、またなにとやうに機をもちてかたすかるべきぞなれば、それ弥陀を信じたてまつるといふは、なにのやうもなく、他力の信心といふいはれをよくしりたらんひとは、たとへば十人は十人ながら、みなもつて極楽に往生すべし。さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。(御文章3帖目2通)

と御文章に言われている通りです。何か私からの犠牲を必要としない救いですから「なにもやうもなく」と言われています。

信心決定出来るものは「国に一人、郡に一人」「極難信」と言われているのですが、阿弥陀如来様の救いに逢うことはそこまで難しいことなのでしょうか?
つまりそれだけ私が助かる可能性は低いのでしょうか?

国に一人とか、郡に一人というのは、昔でいう「村」くらいの単位なので、今の行政単位でいう「日本国」に一人ということではありません。また、昔の「村」といっても、みそみそさんのように真面目に阿弥陀仏の救いについて悩む人が何人くらいあったでしょうか?5割いたでしょうか?熱心な在所でも、そんなにはいなかったと思います。その意味では、可能性が「一億人に一人」のような低さではありません。

また命を放り出してまで、南無阿弥陀仏に帰命出来ない私は仏様の救いに逢うことは終に出来ないのでしょうか?

前述しましたが、私の犠牲がなければ救わない本願ではありません。

どこまでもどこまでも自分には自力壁が立ちふさがりどうしても阿弥陀如来様の御声を聞きひらく事ができません。

南無阿弥陀仏を心得る為にはまだまだ真剣で命懸けの聞法、求道が必要なのでしょうか?

そもそも私に南無阿弥陀仏を聞く縁手がかりがあるのでしょうか?

私が何かを阿弥陀仏に差し出してから、初めて救いにあえるという前提を一先ず捨てて下さい。私が何かを出す前から、阿弥陀仏の救いは私に差し向けられています。
私の方に何か南無阿弥陀仏を聞く縁手掛かりはなくても、阿弥陀仏の方からは救いの働きは働いています。

このまま阿弥陀様の救いに逢うことが出来ず、「生死の苦海辺りなし」の世の中で七転八倒し、のたうち回って苦しみながら死んでゆくのが私の今生での定めなのでしょうか?

苦しみながら死んで行くことが、定まった事ではありません。救われるかどうかは、今のこの時です。ですから、今この時救われることがあります。そうなれば、苦しみながら死んで行くことが定まったことには成りません。

果たしてどれだけ仏法を求め続ければ、阿弥陀如来様の救いに逢うことが出来るのでしょうか?

どれだけ求めればいいのか?という思いを捨てて、ただ今救う本願を、ただ今救う本願と聞いて下さい。ただ今救われます。