安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「本当に任せるだけでいいのでしょうか?そもそも任せると言うことがどういうことなのか全く理解できません。生活のために仏法を置き去りにしてでもなりふりかまっていられない。でもその間に死んでしまったらゲームオーバー。私はこれでいいのでしょうか?」(みそみそさんのコメントより)

みそみそ 2016/10/09 00:26
いつも勉強させていただいております。

結論から言うと現在経済的な事情により、とてもではありませんが仏法に向き合っている余裕が持てません。

経済的に落ち着くまでは法話も念仏も唱えられそうにありません。と言うか、南無阿弥陀仏の心すら忘れかけつつあります。

もう自分から仏法を追い求めることなんて出来なくてもうひたすら本当に阿弥陀如来に任せるしかない状況です。

本当に任せるだけでいいのでしょうか?そもそも任せると言うことがどういうことなのか全く理解できません。

生活のために仏法を置き去りにしてでもなりふりかまっていられない。でもその間に死んでしまったらゲームオーバー。

私はこれでいいのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160929/1475150538#c1475940374

エントリーを書くのが遅くなり申し訳ありませんでした。

経済的な事情により、仏法に向き合っている余裕は無いとの事ですが。何も法話に参詣するだけが仏法に向き合うことではありません。念仏については朝起きたときでも、夜寝る前でも気がついた時に称えてみてください。

みそみそさんの現状は、文面から伝わってきます。本当に大変な状況なのだと思います。
私も、日常の仕事なのに追われていると、心の余裕を無くすことは度々あります。そうはいっても、みそみそさんの方が大変だと思います。

そこで、「阿弥陀仏に本当に任せるだけでいいのでしょうか?」とのことですが、阿弥陀仏の本願に任せる以外に方法はありません。言い方を変えれば、南無阿弥陀仏以外にないというのが、阿弥陀仏が本願を建てられた御心です。それについて、法然聖人は選択本願念仏集に以下のようにいわれています。

しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。
もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。
まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。
ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。(選択本願念仏集)

大意としては、阿弥陀仏は全ての人を救う為に、助かるのに難しい手段を捨てられて、優しい手段を取られました。もし、沢山お布施をしなければ助からないということになれば、貧しいものは助かりません。もし賢いものしか助からないとなれば、愚かなものは救われません。また、多く法座に参詣できる人でないと救われないならば、聞く機会の少ないものは救われません。戒律についても同様です。しかも、布施、多くの法座に参詣、戒律を守ることの出来る人は決して多くありません。そこで、阿弥陀仏は何かをしなければ救われない、こういう人でなければ救われないという本願は建てられませんでした。念仏一つで救われる本願を建てられました。

ですから、阿弥陀仏の本願は常に私にまかせよとおっしゃっています。

任せるということがどういうことなのか全く理解できません、との事ですが任せるというのは救われるということを自分の仕事であると思う気持ちを手放すことです。いろいろと忙しくなってきて、誰も手助けしてくれないと思うと、ますます全部自分でなければならないと思います。また、「こんな自分では…」と自分を見つめてしまいますが、そんな事はありません。

阿弥陀仏には、往生についてはすべてまかせれば良いのです。
また、みそみそさんは生活と仏法は両立できないように思っておられるようですが、それは間違いです。なぜなら、そんな気持ちに余裕のないなか、阿弥陀仏の救いを求められているのが何よりの証拠です。どうにもならない現状をなんとかしたい、ここから離れたいと思われているみそみそさんの願いに先立って建てられたのが阿弥陀仏の本願です。

生活を一旦止めてから仏法があるのではありません。もし生活を離れなければ仏法がないとすれば、生活のことをいろいろ止める余裕がある人でなければ聞けないことになってしまいますが、それは間違いです。


さしあたっては、朝起きるとき、家から出る時にでも念仏を申してください。私の気持ちは余裕がなくても、少なくともそのときは阿弥陀仏の本願と私が触れ合っている時間なのです。

最後に、私はこれで良いのでしょうか?と仰っていましたが、こんな状態では、救われないのではなかろうかと考えておられると思いますが、そんなものを救うと言うのが阿弥陀仏の本願です。必ずただ今救われます。