安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「どうしても獲信にはそれだけの壮絶な苦労が必要なのだというイメージが拭えません。」(みそみそさんのコメントより)

みそみそさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
また、そのコメントに対して複数の方からコメントを頂きました。有り難うございました。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160702/1467457247#c1467530927
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160702/1467457247#c1467557170
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160702/1467457247#c1467588587
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160702/1467457247#c1467589591


今回は、みそみそさんのコメントは長文になるため、このエントリーでは抜粋して紹介します。全文はリンク先を参照して下さい。

みそみそ 2016/07/03 13:42

しかしながら、獲信の体験をした人の話を聞いていると、
「一分一秒も欠かさず念仏した。」「生死の境をさまよった。」「自殺の一歩手前まで自力の心に苦しめられた。」
といった話が出てきて、どうしても獲信にはそれだけの壮絶な苦労が必要なのだというイメージが拭えません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160702/1467457247#c1467520972

これに関しては、あまり参考にしないほうがいいです。もっとハッキリ言えば、読まない方がいいです。なぜなら、阿弥陀仏に救われるというのは、文字通り救われることであって、病気の治療とはことなります。病気の治療ならば、病気によってはある程度決まった選択肢が存在します。
しかし、阿弥陀仏の救済というのは、私たちの日常生活で言えば、災害時に自衛隊や消防士に救助されるようなものだからです。

例えば、ある災害で建物の下に閉じこめられて丸一日動けず、もう駄目かと思っていたことろに、救助隊の人に助けられたと言う人もあれば、地震がおきた数時間後に救助されたと言う人もあります。また、事故や災害、遭難での救助のリミットは一般に72時間といわれています。なかには、72時間ギリギリで救助された人もあれば、72時間を経過して救助されて一命をとりとめる人もあります。

みそみそさんのいわれる体験談というのは、上記にあげた救助の体験談であって、個々人で異なるものです。遭難後72時間で救われた人がいるからといって、72時間飲まず食わずで苦しい目にあわなければ、救助されないということはありません。そのような災害救助でも、九死に一生を得た人は大々的に報道され、多くの人の耳目に触れることとなります。その一方、災害発生後、数時間で救助された人の話は殆ど知られることはありません。

しかし、救助する側から言えば、災害後数時間で救助した人の命も、72時間後に救助した人の命も同じです。また、72時間経たねば救助しないと言う人もいません。

また、助けられた側で言えば、「72時間飲まず食わずだったから助けられた」のではなく、救助隊が来たから助けられたのです。「生死の境をさまよったから助けられた」のでもなく、自分の力でどうにもならない状態だから助けに来てくれたのです。


同様に、救われた体験談というのは「私はこう言う状況で助けられた」と言っているに過ぎません。助ける側から言えば「こういう状況の人だから助けた」ということはありません。たまたま助けたときの状況が、「生死の境をさまよっていた」とか「一秒も欠かさず念仏していた」というだけのことです。
阿弥陀仏が私を助けようと思いたたれたのは、自分の力ではどうやっても生死を離れられないからです。「生死の境をさまよっていたから」ではありません。

「何があっても阿弥陀様だけは私について下さる」とだけ言い聞かせて、
いつの日にか救われる日を待ち望んで、ひたすら孤独と助かるまでの苦しみに耐え、独りで生きていくべきなのでしょうか?(みそみそさんのコメントより)

ハッキリ言えば、阿弥陀仏の救いとは、浄土に往生させ仏にして見せるという救いです。仏とは、「孤独が解消されたから仏」なのではありません。この世の苦しみは、確かにありますが、それだけを救ってみせるという本願ではありません。


みそみそさんが、生きて行く上での孤独や苦しみを解消されたいという思いは理解出来ます。ただ、その苦しみや孤独を解消しても、生死を離れることはできないということで、阿弥陀仏は本願を建てられました。


少なくとも、今の苦しみが続くような救いではありません。自分の要求に応える為の本願でもありません。生死を離れ、浄土に生まれさせるという本願は、みそみそさんに何も代償を要求されません。もっと南無阿弥陀仏を信用してみてはくれないでしょうか?

閉じた世界に信心はありません。開かれた信心が、浄土真宗の、阿弥陀仏の第十八願の信心です。