「阿弥陀如来の救いを求めて一生懸命念仏を称えたり、聴聞したりしましたが、どうにもならないので、段々やる気が無くなってしまいました」(頂いた質問) - 安心問答(浄土真宗の信心について)について、質問を頂きました。有り難うございました。以下、一部抜粋して紹介します。
某会にいた頃は、会を辞めて正しい教えを聞きさえすれば助かるのだと希望を持っていました。
今はもう希望はありません。
(略)
自分のことを悪いとも愚かとも全く思っていない現在の私にとっては、「どんな悪人も、どんな愚かな人も救う本願です」と言われても、心に響きません。
ですが、「私に負担をかけないようにされた」ということは少し心に響きました。
(略)
そのまま助けるの仰せを素直に聞いていないからいけないんでしょうか。そのままなら素直でないものも助かるはずだと思いますが、どうもよく分かりません。(頂いた質問)
質問をされた方に向けて以下のエントリーは書いていきます。
結論から言いますと、「私が救われる」ことについて、「阿弥陀仏に救われるのか」それとも「南無阿弥陀仏に救われるのか」が、曖昧なところから起きる疑問です。
頂いたコメントからすると、「そのまま助けるの仰せを素直に聞いて…」ということからすると、「阿弥陀仏」が「そのまま助ける」と「仰る言葉を聞いて」阿弥陀部仏に救われるというように思われているのではないかと思います。
しかし、実際はそうではありません。「阿弥陀仏の仰せを聞いて阿弥陀仏に救われる」のではなく、「南無阿弥陀仏に救われる」のが正しいです。では、なぜ「阿弥陀仏に救われる」と思っておられるのかといえば、質問された方が所属していた会でそのように話をしているからです。某会では「帰命無量寿如来 南無不可思議光」の正信偈の冒頭二行を「親鸞は、阿弥陀仏に助けられたぞー」と説明をしています。しかし、それは間違いです。
なぜならば、親鸞聖人は、天親菩薩の「帰命尽十方無碍光如来」を尊号真像銘文に以下のように解説されているからです。
「帰命尽十方無碍光如来」と申すは、「帰命」は南無なり、また帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。「尽十方無碍光如来」と申すはすなはち阿弥陀如来なり、この如来は光明なり。(尊号真像銘文_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P651)
http://goo.gl/HQFgN

- 作者: 浄土真宗教学伝道研究センター
- 出版社/メーカー: 本願寺出版社
- 発売日: 1988/01/16
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 6回
- この商品を含むブログ (114件) を見る
従いまして、「帰命無量寿如来」と正信偈にいわれるもの、「帰命尽十方無碍光如来」といわれるのも「阿弥陀仏に救われぞ!」ではなく、「南無阿弥陀仏に救われました」か「南無阿弥陀仏をたのみました」「南無阿弥陀仏にまかせました」というのが適当です。善導大師も、六字釈に「『阿弥陀仏』といふはすなはちこれその行なり。 」と仰っています。南無阿弥陀仏の「阿弥陀仏」は仏様(人格的な仏)ではなく「行」そのものです。
では、なぜ「人格的な仏様に救われる」という考えが真宗の信心とことなるのかといえば、人格的な仏(阿弥陀仏)に救われると考えると、どうしてもその「阿弥陀如来(人格的な仏)」と相談して救われるように思ってしまうからです。また、真宗の信心は南無阿弥陀仏そのものですから、「人格的な阿弥陀如来に救われたぞ」というものとは異なります。
そのままの仰せを聞くとは、南無阿弥陀仏を疑い無く聞くということです。「阿弥陀仏から仰せを聞く」のではなく、「南無阿弥陀仏そのものを聞いた」のが信心というものです。導く人があって、あるいは救い主があって救われると言う信心ではありません。南無阿弥陀仏というお働きに救われるのが、阿弥陀仏の救いです。聞き方の問題ではありません。そこはよく知って頂きたいと思います。