安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

考えてみると阿弥陀仏の本願は「信楽の心を得た人を必ず往生させる」「本願を信じて念仏する者を必ず往生させる」であり「今、必ず信楽の心にしてみせるという本願」でないのではないでしょうか。(アドウチさんのコメント)

アドウチ 2012/10/04 09:49
 質問があります。宮田さんはいつも、阿弥陀仏の本願は今必ず私を救い取る本願であると言われています。でも考えてみると阿弥陀仏の本願は「信楽の心を得た人を必ず往生させる」
「本願を信じて念仏する者を必ず往生させる」であり「今、必ず信楽の心にしてみせるという本願」でないのではないでしょうか。(略)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121003/1349254153#c1349311754

たかぼー 2012/10/04 13:19
そうなんですよね。「只今救う」という本願を聞いて、これに疑いを持たない人にとっては「往生は弥陀任せ」となりますが、疑いを持つ人にとっては「往生は不定」の思いになるでしょうね。だから、「ただ今信楽させる」という誓いではないと思ってしまうのでしょうね。しかし、弥陀は衆生を一切差別せずに本願念仏をひとしく回向し、念仏称えてくれよと願われているのですから、あとは、それを聞いた私が弥陀のその願心とともに念仏を受け入れられるかどうか、でしょうね。受け入れられたら、私にとっても「ただ今のお救い」に遇えたということになりますよね。ほんのささいな違いが大きな違い。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121003/1349254153#c1349324353

アドウチさんが言われるように、阿弥陀仏の第十八願は「本願を信じ念仏するものを必ず仏に生まれさせてみせる」という内容です。それに該当するのは、尊号真像銘文の以下の部分になります。

「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。(尊号真像銘文・浄土真宗聖典(註釈版)P644)

http://1wv.j2.sl.pt

次にアドウチさんの言われている「今、必ず信楽の心にしてみせるという本願ではないのでは」に関係するところは、同じ尊号真像銘文での、「至心信楽」の解説の部分を紹介します。

信楽とは、もともと阿弥陀如来の心です。私の心ではありませんから「凡夫自力のこころにはあらず」と尊号真像銘文に書かれています。

「至心信楽」といふは、「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。
「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。(尊号真像銘文・浄土真宗聖典(註釈版)P643)

http://1wv.j2.sl.pt

私を必ず浄土に生まれさせ、仏にすることに全く疑い無い阿弥陀仏の至心信楽を、私がそのまま聞き入れたことを信心といいます。

そこで、上記の尊号真像銘文では「わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり」といわれ、阿弥陀如来の真実の誓いを疑い無く受け入れなさいと、誓われている本願だといわれています。
「信楽の心にしてみせる」というと、何か自分の心が変化していくような語感がありますが、そういう意味では確かにいわれていません。「阿弥陀如来が、どうか私の本願を疑い無く聞き入れてください」と誓われているということになります。

その本願が成就して、阿弥陀仏となられたのが今の阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏です。
その南無阿弥陀仏を、親鸞聖人は、「本願招喚の勅命」といわれています。その大悲招喚の声を、善導大師は二河白道の譬で

なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ(教行信証信文類 大信釈 引文・浄土真宗聖典(註釈版)P224)

http://2jq.pp.sl.pt

といわれ、親鸞聖人も教行信証に引文されています。

阿弥陀仏の本願は、ただ今私に向かって「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん」と招喚の声をかけておられます。そのことを、ブログでは「ただ今救う本願」「ただ今救うと呼びかけられています」と書いています。

「本願を信じ念仏するものを必ず浄土往生し仏に生まれさせる」という阿弥陀仏の本願は、現在南無阿弥陀仏となって「その私の本願をただ今疑い無く聞き入れなさい」と呼びかけられているので、それを疑い無くただ今聞いたことを信心といいますから、そのことを「ただ今救う本願ですからただ今聞いてください」と書いております。

長々と説明しましたが、意味を書くとこういうことになります。