ループ 2013/08/30 20:45
お答え頂き有難うございました。
南無阿弥陀仏は
>「めでとうしなして」をせずに、ただちに来れという意味になります。
とのお答えです。しかし、片や南無阿弥陀仏とは
>救いに必要のない「私」を捨てよ
ということだと仰る。矛盾を感じます。>「自力の心」を全部取り払える力があるのは、阿弥陀様だけ
と明らかなのに、>救いに必要のない「私」(自力のことと解説頂きました)を捨てよと
無理とわかり切っていることをすすめられるものでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130830/1377849645#c1377863155
たかぼー 2013/08/31 11:22
「自力は捨て物」とは、「自分の力で自力を捨てよ」という意味では、勿論、ありません。自力を捨てるに際して自分の力にたよってそれを捨てようとしても、まったくの無駄事です。「自力を捨てよ」とは、如来が「われにまかせよ」といわれていることについて、「いつまでも自力の計らいや思いに執着せずに、如来の仰せのとおりに受けよ。」というのと同じ意味で言われているものです。「自力は捨て物」だから、「如来にまかせよ」ということです。未信の人がとても聞き誤りやすいところです。このコメントは、特定の方を想定して発信したものではありません。
ループ 2013/09/01 03:45
論旨を進めるために、たかぼーさんのコメントをお借りします。>「自力は捨て物」だから、「如来にまかせよ」ということです
yamamoya様もまた、同じように、南無阿弥陀仏とは、
>救いに必要のない「私」を捨てよと阿弥陀仏は言われていますと仰いました。
阿弥陀仏の救いとは、「自力が廃って他力になる」ことで、「自力が廃る」ことと「他力になる」ことは一念同時であり、表裏のような関係にあるものと存じます。
自力を捨てさせるのが阿弥陀仏のお仕事であるならば、
南無阿弥陀仏には「自力は捨て物だから、如来にまかせよ」の意味がある、というのは如何なものでしょうか?南無阿弥陀仏を素直に読めば、「阿弥陀仏を南無せよ」で、阿弥陀仏の側から言えば「我を信じよ」です。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130830/1377849645#c1377915774
自力我執に苦しむ行者に対して、阿弥陀仏は「我を信じよ」と、お呼びかけされている、との解釈は間違いでしょうか?
ループさんのコメントから引用しながら書きます。
南無阿弥陀仏には「自力は捨て物だから、如来にまかせよ」の意味がある、というのは如何なものでしょうか?(ループさんのコメントより)
南無阿弥陀仏について、親鸞聖人は「本願招喚の勅命」といわれ、善導大師は「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ」と解説されました。
一言で言えば「ただ今救う」「ただ今救うという阿弥陀如来にまかせよ」ということになりますが、その阿弥陀如来にまかせないのを自力というので、自力を捨てよという意味にもなります。
南無阿弥陀仏を素直に読めば、「阿弥陀仏を南無せよ」で、阿弥陀仏の側から言えば「我を信じよ」です。
自力我執に苦しむ行者に対して、阿弥陀仏は「我を信じよ」と、お呼びかけされている、との解釈は間違いでしょうか?(ループさんのコメントより)
阿弥陀仏は、如来を信じられないものに「我を信じよ」といわれるのでしょうか?という趣旨だと理解しました。「如来を信じられない」という「信じる」と「我を信じよ」の「信じる」は意味が異なります。そこで、「我を信じよ」について蓮如上人は御文章に「弥陀をたのむ」と書かれています。それは「我を信じよ」との阿弥陀仏の仰せは、「私を信じられるように努力しなさい」という意味ではないからです。「我を信じよ」とは、「ただ今救うぞ」という阿弥陀仏の仰せを受け入れることです。
自分から「信じよう」と突き進んでもそこには「阿弥陀仏を信じた」状態には行き着けません。なぜなら、「信じよう」として「信じた」ものは自力の信心だからです。それに対して、阿弥陀仏の仰せを受け入れるということは、「自分から信じよう」としたものではありません。他力の信心と言われるものは、阿弥陀仏の仰せを受け入れただけです。自分から信じようとした結果になるものではありません。