安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「私がどのような態度で称えた南無阿弥陀仏も、私を救うためにあらわれて下さった阿弥陀仏のお働きそのものでしょうか? 私の立場から見ればそれは為物身でしょうか?」(1chさんのコメント)

1ch 2013/10/29 14:28
実相身、為物身の気になったところについて質問です。

>衆生(物)のために利益を施す利他円満の仏身を為物身という。

人が物でもあるということは、
私が見えたと分かったり聞こえたと認識できたり私だと思ったりするのは、物を超えた働きである仏の為物身と実相身とによるのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20131028/1382949490#c1383024505

物というのは、「物質」という意味ではありません。お聖教に、仏様が救う対象である私たち(衆生)を「物(もの)」と書かれています。ですから、「物」というのは、仏教用語で「衆生(または人・私)」を指す言葉で、「物質」「物体」と指す言葉ではありません。

たとえば、教行信証行巻に以下のようにあります。

またいはく(同)、「いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。(教行信証行巻_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P180)
現代文
また次のようにいっている(阿弥陀経義疏)。
 「まして、阿弥陀仏は名号をもって衆生を摂め取られるのである。

http://goo.gl/O0Zd3D

「物を接したまふ」は、「衆生を摂め取られる(救って下さる)」という意味です。

(1chさんのコメント続き)
いただいた助言について質問です。

>南無阿弥陀仏を聞いたのが信心ですから、自分と相談するのではなく法を仰いで聞いてください。南無阿弥陀仏は、私を救うためにあらわれて下さった阿弥陀仏のお働きそのものです。

私がどのような態度で称えた南無阿弥陀仏も、私を救うためにあらわれて下さった阿弥陀仏のお働きそのものでしょうか? 私の立場から見ればそれは為物身でしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20131028/1382949490#c1383024505

南無阿弥陀仏そのものは、私がどのような態度で称えようとも、阿弥陀仏のお働きそのものです。
親鸞聖人も、この南無阿弥陀仏を「大行」といわれています。実相身であり為物身である阿弥陀如来が私に回向された「行」がこの南無阿弥陀仏です。


(1chさんのコメント続き)
自分の口から南無阿弥陀仏が聞こえている時、もう仏の働きはあらわれていて、(為物身としての)救うという法として私があるなら、私は実相身も同じで仏に救い還されるという理解でいいのでしょうか?

そういう事ではありません。
阿弥陀仏のお働きは(南無阿弥陀仏)、私めがけて回向されています。私めがけて回向されているから、私の口から南無阿弥陀仏と出てくださるのです。しかし、その如来回向の法である南無阿弥陀仏を「法そのまま」として聞き受けないあいだは、私の浄土往生はありません。
また、私自身は浄土往生し成仏しない限りは実相身と同じということにはなりません。


阿弥陀如来は私を救おうと本願を建てられました。その本願が成就しているからこそ、「助ける法」として南無阿弥陀仏が私にさし向けられています。その助ける法を聞いたそのままで、自分の計らいが入らないことを信心といわれます。助ける法である南無阿弥陀仏を聞いてください。