安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「なぜ"信心決定"のことを信心"獲得"と言うのでしょうか?獲得の意味を調べると、"努力して自分のものにすること。"ということなので、言葉の意味自体、自力の意味合を含んでしまうので、本来の"信心決定"の意味と矛盾するのではないのでしょうか?」(せみまるさんのコメントより)

せみまる 2016/03/31 04:47
(略)
それから単純な疑問なのですが、なぜ"信心決定"のことを信心"獲得"と言うのでしょうか?

獲得の意味を調べると、"努力して自分のものにすること。"ということなので、言葉の意味自体、自力の意味合を含んでしまうので、本来の"信心決定"の意味と矛盾するのではないのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160324/1458821900#c1459367231

元々親鸞聖人が、そのように仰っているからというのが一番の理由です。

それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。(教行信証信巻)

http://goo.gl/FJh293

もちろん信心決定という言い方もされています。意味はどちらも同じです。
そこで、獲得の意味ですが、国語辞書に出てくるものとは意味が違います。

国語辞書では、いわれるような意味になっています。

かくとく【獲得】
( 名 ) スル
(努力や苦心の末に)手に入れること。自分のものにすること。 「優勝杯を−する」 「 −した権利」(大辞林)

それに対して、真宗新事典では、以下のように書かれています。

ぎゃくとく 獲得
うること、身につくこと、一般には不相応行の一で、まだえぬもの、すでに失ったものを今えること獲、えてから失わないものを得、成就とする[倶舎論]。真宗では、因位または現在えるのを獲、果位または将来えるのを得というが、獲と得を同じ意味にも用いる。(略)

元々、真実信心を私はもちあわせておりません。その私には本来ない真実信心をえて、またそれを一度えると失うことはありませんから獲得と言われています。

また、努力してえるものではありませんから、先に挙げた教行信証信巻のお言葉では、「信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す」と言われています。阿弥陀如来の十八願の御心より起こされるのが、信心を獲得することです。自力でえられるものではありません。