安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「生涯、自力の念仏しか唱えられなかった場合は後生どうなりますか?」(せみまるさんのコメントより)

せみまるさんからコメントを頂きました。有難うございました。また、それについてコメントを複数の方から頂き有り難うございました。

名無し 2016/03/23 17:16
生涯、自力の念仏しか唱えられなかった場合は後生どうなりますか?

私はとにかく助かろうと、念仏ばかり唱えておりますが、自力でしか唱えることが出来ません。
他力によって念仏を唱えることが出来ずに臨終が来たらと不安でいっぱいです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160319/1458370398#c1458720984

自力の念仏では、浄土往生はできません。しかし、お尋ねの内容は「生涯、自力の念仏しか称えられなかった場合は」となっています。せみまるさんが、この先生涯自力念仏で終わるかどうかは、せみまるさんが決めることではありません。また、お尋ねの文面から、自力念仏しか称えられないなら、称えるだけ無駄ではないかとか、称えないほうがよいのではないかというお気持ちがあるのではないかと思います。

それについては、無駄かどうかという問題ではなく。念仏以外に、私を浄土往生させるお働きはありません。その意味では、「称えないほうがいい」という選択肢はありません。また、自力念仏か、他力念仏かの違いは、南無阿弥陀仏が私を助けるお働きであることを疑うか疑い無いかの違いです。念仏以外に、助かる道がないわけですから称える以外にはありません。ただ、それが、私が救われる行であることを受け入れるかどうかです。それは、生涯かかるものではなく、現在ただ今変わることがあります。なぜなら、南無阿弥陀仏が私を救う法であるということは、私の思いと関係なくすでにそうなっていることだからです。あとは、せみまるさんが、それを聞き入れるかどうかです。

名無し改めせみまる 2016/03/24 11:46
ありがとうございます。

申し訳ありません。

>大きな阿弥陀仏の慈悲を想いましょう。

ここがよく分かりません。どのようにしてお慈悲を想うことが出来るのでしょうか?

またこうして質問を重ねている事自体、獲心から遠ざかることなのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160319/1458370398#c1458787617

質問を重ねること自体は、獲信から遠ざかることではありません。こうして阿弥陀仏について尋ねるのは、それだけ阿弥陀仏に心が向いているといういうことです。

阿弥陀仏のお慈悲を思うということですが、いま読まれているこの場でできることは、念仏申すことです。
すでに念仏の謂れは聞かれていると思いますが、南無阿弥陀仏は阿弥陀仏の慈悲心のあらわれそのものです。その南無阿弥陀仏を称えるということが、阿弥陀仏のお慈悲と直接接している姿です。阿弥陀仏と直に接していることが、獲信から遠ざかるはずはありません。

念仏は、「ただ念仏して」と言われるように、念仏になにか計算や予定を立てて称えるものではありません。私がどんな気持ちで称えても、南無阿弥陀仏の功徳そのものは成就したものなので、変化することはありません。つまり、私を助ける働きが強くなったり弱くなることはありません。

ただ、本来ある私を助けるお働きを疑い無く受け入れる(信じる)かどうかがで、浄土往生するかしないかは定まります。「こうしたら救われないか」「こう思ったら救われないか」という胸算用は、どこまでいっても胸算用なのであてにはなりません。

南無阿弥陀仏は、私を救うお働きであると聞いて、称えて、それをそのまま受け入れて下さい。南無阿弥陀仏をただ今聞いてただ今救われて下さい。