安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「一念覚知は間違った考えと聞きますが、どこがどのように間違いなのでしょうか?」(頂いた質問)2

「一念覚知は間違った考えと聞きますが、どこがどのように間違いなのでしょうか?」(頂いた質問)

前回のエントリーの続きを書きます。
まず、「一念覚知」という言葉が親鸞聖人の書かれたもののなかにあるのかと言うことについて書きます。結論から言うと、親鸞聖人の著作に「一念覚知」の言葉は出てきません。しかし、「一念」と「覚知」は出てきます。

一念についてはご存知の方も多いと思いますので、今回は省略します。

「覚知」の根拠

「覚知」という語は教行信証信巻に出てくる言葉です。

欲生は、すなはちこれ願楽覚知の心なり、成作為興の心なり。(教行信証信巻より)

http://goo.gl/FUPrDu

ここは、教行信証信巻・三心字訓釈の中の欲生釈のお言葉です。これは阿弥陀仏の第18願にある「至心・信楽・欲生我国」の三心の中の「欲生我国」を解説されたものです。

そこでこの「願楽覚知の心」について、浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版(P230)では「往生できると知ってよろこび願う心」とあります。


ここで気をつけて頂きたいのは、(18願の)「欲生我国」「願楽覚知の心」「往生できると知ってよろこび願う心」は、希望的観測としていわれたものではありません。とはいえ、一般的に「欲(思う)」の言葉は、現在ハッキリとしているわけではないけれどきっとそうなるだろうという意味があります。
その意味で言えば、阿弥陀仏の19願・20願にある「欲生我国」はまさに希望的観測での意味です。「これだけ修諸功徳しているのだからきっと浄土に生まれられるだろう」とか、「これだけ念仏しているのだからきっと浄土に生まれられるのだろう」という意味での「欲生我国」です。

しかし、18願の「欲生我国」は「信楽」の後にでてきます。ちなみに19願・20願には信楽の言葉はありません。

つまり、18願の信楽は、「疑蓋無雑の心」であって、無疑心(疑い無い心)から出てくる「欲生我国」は希望的観測の意味は全くありません。


なぜなら「無疑」はすでに疑いようもないことをいう言葉だからです。例えば、現在ただ今の天気が晴れているときに「晴れているだろうか?」という人もありませんし、「晴れているに違いない!!」と力む人もありません。そのときは、私が「思う」「思わない」と考えを差し挟む余地はありません。つまり、私がどう思ったとしてもただ今の天気は「晴れ」に違いありません。

よって、18願の欲生我国(願楽覚知の心)は、きっと往生出来るに違いないと、確信をもって期待する心ではありません。私が思っても思っていなくても、すでに信楽(無疑心)とあるうえでの欲生我国は、「私は往生出来るのだろうか?出来ないのだろうか?」と問題にすることも、確信を必要とすることもありません。なぜなら、18願の欲生我国(願楽覚知の心)は信楽をそのものがらとしているからです。

次に欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。
すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり。(教行信証信巻)
(現代語版)
次に欲生というのは、如来が迷いの衆生を招き喚びかけられる仰せである。そこで、この仰せに疑いが晴れた信楽を欲生の体とするのである。

http://goo.gl/8WSgcv

つまり、18願の欲生我国(願楽覚知の心)は何によってそうなるのかといえば、信楽(本願に疑い無い)からです。本願に疑い無いということは、「ただ今の救う」「浄土に生まれよ」と喚びかけられる南無阿弥陀仏をそのまま聞き入れるということです。その「ただ今助ける」の仰せを聞けば、「ただ今助かる」「浄土に往生できる」の信心となります。


これは、何か期待をしている心ではありません。すでにそうなっている本願をそのまま聞いているのですから、私の思いを差し挟む必要はありません。言い換えれば、私の「間違いない」とか「ハッキリした」を必要としないのが信心です。


では、なにもないことになり、信前と変わらないではないかといわれる方もありますがそうではありません。信前は、自分の心を中心として自分の心を納得させようとし、納得したのが信心だと思っています。だから「ハッキリしたい」と「覚知」「確信」を求めます。信後は、南無阿弥陀仏を中心として、本願の仰せで「ただ今助かる」となるので、自分の心や考えは関係ありません。

よって、一念覚知は間違いと言うことです。