安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

信心をえたならば何かハッキリすのか?について補足

前回のエントリーに関連して、信心について書きます。

仏教全般で「信心」は、「これがなくてははじまらない」ものです。そこで「入法の初門」が信心ともいわれます。確かに、仏様やその法を信じないことには、どれだけ素晴らしい法があってもその人の手にはいるものではありません。


そこで法という「宝の山」から、宝を持って帰るための「手」が信心であるという説明もあります。そのような考え方を、真宗の信心に持ち込むと誤りとなります。それは「信心という手」が、救われると自分に生えてくるように考えてしまうからです。そこから「信心=確信」とか、「信心を獲たならなにか変わるはず」と連想します。
信心はこれがないとはじまらないという意味で、お経の最初の「如是」(如是我聞の如是)は信心を現す言葉だと解釈されます。


しかし、親鸞聖人は教行信証化身土巻に、その如是について以下のように解釈されています。

三経の大綱、顕彰隠密の義ありといへども、信心を彰して能入とす。ゆゑに経のはじめに「如是」と称す。「如是」の義はすなはちよく信ずる相なり。いま三経を案ずるに、みなもつて金剛の真心を最要とせり。真心はすなはちこれ大信心なり。(教行信証化土巻・浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P398)

http://goo.gl/BZ7dJ

「如是」はよく信じるすがたであり、その信心があって初めて仏法に入ることができるのだといわれています。しかし、浄土三部経にあらわされているのは、阿弥陀仏の本願念仏でありますから、この「如是」は金剛の真心であると言われています。


いわゆる聖道仏教でいう信心は、「自分が法を信じ、その法に説かれる行によって証が得られると信じて」仏門に入るものです。だから、入法の初門といわれます。しかし、他力の信心はそのように「信じて実行するための信心」ではありません。南無阿弥陀仏を疑い無く聞いたのが信心ですから、「私が聞いた」というものではありません。本願の仰せにそのまま従ったのが信心です。


そのことを親鸞聖人は教行信証信巻の信楽釈の最後に、浄土論註を引いて結論とされています。

【37】 『論の註』(下 一〇四)にいはく、「如実修行相応と名づく。このゆゑに論主(天親)、建めに〈我一心〉(浄土論)とのたまへり」と。{以上}
【38】 またいはく(同・下 一五七)、「経の始めに<如是>と称することは、信を彰して能入とす」と。(教行信証信巻:浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P240)

http://goo.gl/lqBZr

ここでは、天親菩薩の「我一心」といわれた信心を「如実修行相応」といわれています。「如実修行相応」とは、阿弥陀仏のなされた通りに相応するということです。本願の仰せのままになったことをいいます。
そのことをお経の始めに「如是」といわれるのは、本願の仰せのままになった他力の信心をがさとりにいたる因であることをあらわされています。


言い換えると、親鸞聖人がいわれる他力の信心は「如是」だということです。如来の仰せの通りになった、本願念仏の通りになったことです。阿弥陀如来のただ今救うお働き通りになったことが信心です。自分が何かを得たこと、それによって何かがわかることを他力信心とはいいません。


南無阿弥陀仏の仰せのままに、南無阿弥陀仏となったのが他力の信心です。ただ今救うの仰せによってただ今救われます。