「『信心と念仏は別のものではなく、離すことができないもの』と聞くと、信心とは念仏?のことでしょうか?そうなるとよく分かりません」(頂いた質問)
前回のエントリーに対する質問を頂きました。
信心は念仏なのですか?との質問ですが、ある意味ではその通りです。ただ、その意味はよく知っていただきたいと思います。
まず、真宗でいう念仏とは阿弥陀仏が私を助ける働き(行・法)を指して言われる言葉です。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。(教行信証行巻)
http://goo.gl/KcQTlW
と言われていますが、大行とは称名(念仏)であると言われています。
その大行を聞いて疑い無いことを信心と言います。ですから、信心のものがらそのものをいえは、大行、法、念仏となります。
親鸞聖人は、信心については「無疑心」といわれ、「疑い無いこと」だと言われています。そうなると、信心とは「疑い無いこと」となり、では「何があるのですか?」と疑問を持ちます。しかし、その物がらそのものを言えば、阿弥陀仏の行であり、南無阿弥陀仏以外にはありません。
そこで、なにも無い、南無阿弥陀仏であると聞くと、では信心とは一体何なのですか?と疑問を起こす方もあると思います。
それについては、繰り返しになりますが、
このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。(教行信証信巻)
http://goo.gl/pmLpGl
と言われています。疑蓋間雑あることなしが、信楽(信心)です。疑い無いのが信心ですから、そこに何があるのかというものがらを言えば、大行、法があるということです。信心そのもののものがらはないけれども、その体を言えば南無阿弥陀仏であるということです。
その意味で、信心と念仏は離れていないと言うことが出来ます。信心は念仏であるという言い方は、上記の意味では成り立つ言葉です。ただ、言葉が違うということは、その表す内容も違うと言うことです。あくまで、念仏は、大行、法そのものです。それに対して、信心はその大行、法を聞いて疑い無いことです。
それ以外に、何か信心と言われるものは無いので、真宗では「勅命のほかに領解なし」という言葉もあります。南無阿弥陀仏のただ今助けるの勅命以外に信心というものはありません。それ以外の何かがあるとと思ってしまうと、全くの方向違いの道に歩いていくことになってしまいます。
あくまでも、南無阿弥陀仏を聞き入れたのが信心であって、それ以外には何もありません。ただ今助けるを聞いて、ただ今救われてください。