安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

南無阿弥陀仏が私を救うお働きだとは聞きますが、今一つ実感として分かりません。(頂いた質問より)

南無阿弥陀仏が私を救うお働きだとは聞きますが、今一つ実感として分かりません。(頂いた質問より)

実感と言われる言葉からは、何かを実際手にしたときの重みや、火傷をしたときの熱さのようなものを想定していわれているのだと思います。

また、そんなものではないにしても「何か」あるだろうと思ってしまいます。それは、私もそう思っていましたのでよく分かります。


しかし、今聞いている南無阿弥陀仏に何かの「実感」が加わって、その通りと聞けるようになるのではありません。

なぜなら南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の本願が成就した相であり、阿弥陀仏が私を救うお働きだからです。。それをそのまま聞き入れることを、信心獲得(信心決定)といいます。何かを加えて聞いたことにより救う働きがやっと完成するというものではありません。そのことを蓮如上人はこのように言われています。

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。(御文章五帖目五通)

http://goo.gl/VCNq4F

信心獲得するということは、阿弥陀仏の第十八願をこころうることであり、それは南無阿弥陀仏のいわれをこころうることだと言われています。

こころうるというのは、聞いたとおりに思うということです。聞いたことにあれこれこちらの評価や判断をもちこまないということです。なぜなら、南無阿弥陀仏が私に働きかけ、また私の口から称名念仏となってあらわれているのは、私が判断を挟む前にあることだからです。

また、聞いた通りに思うということは、親鸞聖人は「聞思して遅慮することなかれ」と言われています。聞きなさい、聞いた通りに思いなさいというのが、「聞思して」ということです。聞く前からあれこれ計らったり、聞いたことにあれこれ付け加えてはならないというのが「遅慮することなかれ」です。

南無阿弥陀仏の念仏を称えても聞いても、今一つなんとも感じられないので、ついつい「何か」を加えないと味が分からないのではないかと思ってしまいます。しかし、ただ今救うのおはたらきは、聞いた通りのことだと聞くのが、こころうるということです。

南無阿弥陀仏に間違いないということは、間違いないと思ったから間違いなくなるのではありません。間違いない南無阿弥陀仏だから、間違いないのです。「間違いない!」と実感できたから、間違いなくなるのでもありません。
「必ず救う」の南無阿弥陀仏の仰せが間違いないから、必ず救われることになります。

南無阿弥陀仏と聞いたそのままが、救われたと言うことです。何かの実感を加えなくても、そのまま聞いて下さい。