安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信心を頂く」とは「自然と念仏が出てくる心を頂く」ということですよね?(ひなさんのコメントより)

ひな 2013/07/23 17:03
山も山さん、「信後の念仏」についてお尋ねしたいと思います。

信後に一番大きく変わったことは、「念仏と自分との関係」です。

未信の時は、お念仏を獲信の足しにしようという「下心」が、どうしても拭い切れませんでした。
お念仏を称えることを自分に課して、砂をかむような思いで称えていたこともあります。
お念仏を称え損ねて「なむあみだびゅびゅ」などと言ってしまうと、なんだか阿弥陀様に申し訳ないことをしたような気持ちになったりもしました。
とにかくお念仏に対して常に「構える心」が、自分の中にはあったのです。

今は、お借りしていた本を「もうその本は、君にあげるよ。」と言われたような気分です。
お念仏が自分とは切り離すことができない、自分の体の一部になったような感じです。
(お念仏は御恩報謝だから称えなければ・・・)と自分に課したり、気負ってお念仏を称えるということは、私にはありません。

たとえば善太郎さんの・・・
「おがんで助けてもらうんじゃない おがまれて下さる如来さまに 助けられてまいること
 こちらから思うて助けてもらうじゃない むこうから思われて、思いとられること この善太郎」
などという有り難い言葉を読むと、何かを思うより先にお念仏が自然と出てきます。
何かをしている最中でも、いつの間にか仏教のことを考えていて、信心が勝手に反応してお念仏が出てくることもあります。

だから「信心」と「念仏」を別のものと考えることには、自分の感覚からしても非常に違和感があります。
私としては、「南無阿弥陀仏」が自分の中にあるのが「信心」で、「南無阿弥陀仏」が口から外に出たのが「念仏」という感じです。


人ごみの中で気が付くと、いつの間にかお念仏を称えている自分がいます・・・。
ほぼ無声音でお念仏を称えている私は、他人の目から見たら奇異に映るかもしれませんが、気にしていません。
あくびをしながら「にゃんにゃんにゃぶつぅ〜」となっても(ありゃりゃりゃりゃ・・・)と済ませています。
以前にはあったお念仏に対する「下心」や「構える心」が、いつの間にかなくなってしまったようなのです。
クシャミやシャックリよりも頻繁に自分の身に自然に湧き起こってくる現象・・・私にとって「称名念仏」とはそういうものです。

山も山さん、「信心を頂く」とは「自然と念仏が出てくる心を頂く」ということですよね?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130719/1374224923#c1374566603

ひな 2013/07/24 09:14
Rudel様、ありがとうございます。

私の言う「自然と念仏が出てくる心」の「念仏」とは、あくまでも「他力の念仏」のことです。
未信の時と比べて、明らかにお念仏の出方が変わったことをこういう言葉で表現したのです。
信後になってからは、「法」に「信心」が呼応して勝手に「お念仏」が出てくることがあります。
未信の時には、こういうことは一切なかったのです。
だから「自然と念仏が出てくる心」という言い方をしました。
でも確かに、こういう言い方は誤解を受けるかもしれませんね・・・。
いや誤解を受ける以前に、「他力の信心」をこう言い換えること自体が、適切ではなかった・・・のかな・・・?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130719/1374224923#c1374624895

横着者のひな 2013/07/24 11:52
(略)
追伸:「他力の信」=「念仏する心」という表現は適切ではないのかもしれないけど、私の信心は「念仏する心」なんですよね・・・。

「念仏する心」とひなさんがいわれるのが、「念仏するのに下心が混じらないこと」という意味なら、その通りだと思います。

念仏を、救われる為の手段と思い、自分の行為と思うのは自力の心であり、その心で称えるのは自力の念仏です。それでは、報土往生はできません。


念仏について、ひなさんのコメントから引用します。

とにかくお念仏に対して常に「構える心」が、自分の中にはあったのです。(ひなさんのコメントより)

「南無阿弥陀仏」の阿弥陀仏の仰せに対して構える心が、自力の計らいです。言葉をかえると「ただ今救う」と聞いても、「ただ今って今ですか?」と構えてみたり、「そのまま救う」と聞けば「そのままってどのままですか?」と構える心です。


ただ、信心とは、そういう「南無阿弥陀仏に構える心がない」ことであって、何があるのかといえば「南無阿弥陀仏がある」だけです。「信心だから『心』を頂く」というのは、ある意味その通りなのですが、「信心」の言葉の定義からすれば「南無阿弥陀仏に構える心が無い(無疑心)」ということになります。

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。(御文章5帖目5通_信心獲得の章)

http://goo.gl/CvKdp

「信心」を獲得するとは、「第十八願の願」をこころうることであり、「南無阿弥陀仏のすがた」をこころうることだといわれています。

ですから、「信心」といっても「南無阿弥陀仏のすがた」以外にはありません。「南無阿弥陀仏のすがた」とは、「ただ今お前を助ける」という阿弥陀仏の仰せでありお働き以外にはありません。


また、阿弥陀仏の第18願は、「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」ですから、その通りに阿弥陀仏の仰せに従い念仏をする人は、第十八の願をこころうる人ということになります。

阿弥陀仏の本願をそのまま受け入れる人は、念仏は本願力によって起こされるものです。もちろん、心がける必要もありますが「全く念仏が出ない」ということは考えにくいことです。

ひなさんが念仏を称えることに構える心がなくなったというのは、「構える心」という自力心がなくなったことだと思います。その「構える心」が無くなれば「念仏申せ」という本願力どおりに念仏されるようになったのだと思います。