安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「41 何をせんでも雑修は雑修」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

41 何をせんでも雑修は雑修

 黙って行ってしまえば、何の事もなかったに今のお婆さんは。御講師より現世祈祷の免許鑑札でも貰うたような心地して、近所の人々や、知り合いの同行に対し。いかにも手柄顔に披露を致し、
「私はこれより目の御祈祷に、大岩様へ行って来ますから。留守中は何分よろしく」
との口上じゃ。
 
 
 そこで心有る同行は驚いて、
「是はお婆さん何事ぞえ。念仏信ずる身の上が、現世祈祷に出掛けるとは。後生の大事を忘れたのか」
というてくれた人もあったが、婆さんは得意満々で。
「私は態々橋場の御講師様へ、御伺いをして来たのじゃ。御不動様へ目の療治に行ったとて、何の後生の邪魔にならぬから、行って来いよと御許しを受けたのじゃ。現世祈祷が雑行雑修になるなどということは、学問のない愚かなもののいうことじゃ。嘘と思うたら御講師様に、お聞きなされ。」
と力み散らして行ってしまった。
 
 
 暫くするうちに、是が町中の大評判となって、同行中にも種々様々の取り沙汰が始まった。御講師様が、現世祈祷を御許しになったとか。雑行雑修も差し支えないと、仰せられたとか。真宗の勧めに違うとか、聖教の所判に背くとか、聞き捨てになるとか、ならぬとか。中々の問題となってきたので、五三の世話同行は大いに心配し。


「まさか御講師が、その様のことを仰る訳は有るまい。是は何ぞの聞き違いか、若しくは無根の嘘話に相違有るまい。しかし此のままにしておいては、御法義が乱れてしまうから。兎も角も御講師様へ、事の実否を伺うて、此の騒ぎを取り鎮めにゃなるまい」
というので。同行打ち揃うて御講師を訪れたところ。幸いご在宅であったので左右なく御逢い下された。


 余り以外の事柄であるから、同行も何と口切って御尋ね申す言葉も出ず。暫くは互いに顔を見合わせて、いてあったが、その様子。御覧なされた、御講師は。
「何ぞ尋ねる用事でもあって来たのか。」
と仰せられた、そこで一人の同行進み出で。

「実は今日御伺い申したは、御法義のことに付いて、町方中に余りおかしい評判がありますので。万々嘘の事とは思いますものの、先ず一応は御尋ね申して見たがよかろうと、思うて参りましたが。先日何某のお婆さんが、尊師へ御伺いに、出ませんかったでしょうか。」
と申し上げたれば、御講師は。

「ウムその婆さんは来たぞ来たぞ。」
と仰せられた。そこで同行。

「左様で御座りますか。そしてその婆さん、は目を患うて居た筈でありますが、何ぞ目の事について、尊師に御尋ね申しませなんだか。」

「ウムその眼の用事のみで、婆さんは来たのじゃよ。」
と仰るから、同行はオヤまんざら無根の話でもなさそうじゃと思うて。

「実はそのお婆さんに付いて、いやな評判がたちましたので。どうやら尊師が、現世祈祷をしても、更に差し支えないから、大岩へ行ってこいと。御許し遊ばしたような取り沙汰を、致しておりますが。是は何ぞの聞き間違いで。」
と、いわせも果てず御講師は、何の容赦もなく。

「ウム、それは私がそう言うてやったのじゃよ。」
と仰せられたので、同行は吃驚して膝を進め。

「是は御講師様にもあるまいことか。仏号をむねと修すれども、現世を祈る行者をば、これも雑修となづけてぞ、千中無一ときらはるる、と有るからは。たとい念仏三昧にしていても、その念仏を現世祈祷に用いるようなことでは。往生は叶わぬぞ、と御誡めて下されてあるものを。御不動様へ心願祈願することを、御許しになるとは何事でありますか。」
と問い詰めれば、御講師は、ニッコと笑い。

「それは確かに現世祈祷をしてはならぬのじゃ。
 しかしあの婆はなぁ、不動様へ行ってはならぬぞ、と押さえて見ても。体は押さえておかるるが、心は毎日大岩へ。行きつ戻りつ通いづめにしておるのじゃ。どうせそのようなことでは、身体は祈祷に行かいでも、心は雑修自力じゃもの。一層のことにサッパリと、許してやってしもうたら。御不動様もまんざら他人では御座らぬゆえ。何ぞの御方便を以て、本願の正意に帰するよう、婆を導いて下さるであろうと思うて、オレは許してやったのじゃよ。」
と仰せられたので。同行は忽ち恐れ入り、かくばかり深き思し召しのあるとも知らず。浅はかにも、善しや悪しやと取り沙汰したことの勿体なやと懺悔して。講師の御前を引き下がったという話である。


 この話に就いて、私は深く感じたことであります。そもそも当流に於いて、雑行雑修を捨てるということは。有る善根を無くすることでもなく、したい祈祷を止めておれば、それでよいというのでもない。現世祈祷に行ってはすまんと、止めていたお婆さんも、行かぬまんまが、雑行雑修であると同時に。現世祈祷を御許しなされた御講師も、許したまんまが雑修自力ではなかったのじゃ。
 
 
 然るに世間の人々は、所作や形式の上にのみ迷いこみ、絶対の信仰を忘れて、小刀細工の理屈に流れ、祈祷やまじないを一概に嫌うて。是をすれば往生の邪魔になる、是を止めれば大丈夫のように、思うて御座る有り様は。いかにも淫婦が、貞女を立て抜くような体裁で。現世祈りをしては見たいが山々なれど、それでは阿弥陀様に、見捨てらるるが大変じゃで。地蔵様や観音様には、顔向けは致しませんと、済まして御座る御方もある。
 
 
 成る程この世の人間ごとなら、形の上ですむことゆえ、なんぼイタズラ女でも。夫に対して、我慢でも辛抱でも、外の男に肌身を触れぬということで、貞女の道も欠けまいが。後生の話はそうは参らぬ。何分心の上のことなれば、相形で地蔵様へ参らずとも、心が真実でなかったら、矢張り雑行雑修である。心が如実のものならば、相で諸仏を拝んでも、それで雑修の失とはならぬ。殊に阿弥陀如来の御心は、衆生が諸仏に向かうたら、弥陀も衆生に縁切るぞというような、悋気仏では御座るまい。而も現世祈祷をしたために、御助けの壊れるような、かよわい御本願ではあるまいと思われる、よって私は、雑行雑修になるとならんの境目は。形の上で、したのせんので決められはせん。必ず信心の有無によって決めねばならぬことと思わるる。
 
 
 若し信心決定せざる人ならば、何をしてもせんでも、雑行雑修の分際を離るるとはは出来ぬので。若し信心決定の行者なら。何をしたとて雑修自力になる気遣いはないものと断言をして見たいのであります。