安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「私が救われるには阿弥陀仏の本願しかないと理解していますが、私には阿弥陀仏の本願を信じる心がさらさらもありません。念仏や聴聞を続けていれば何時か本当に信じられるようになるのでしょうか。」(質問箱に頂いた質問)

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Peing-質問箱-より

私が救われるには阿弥陀仏の本願しかないと理解してますが、私には阿弥陀仏の本願を信じる心がさらさらもありません。念 | Peing -質問箱-

質問箱には、以下のように書きました。

阿弥陀仏が私を救うことに疑いありません。必ず助けると信じておられます。その阿弥陀仏の心によって「必ず助かる」という信心となります。
私の中から信じる心が出てくるのではなく、阿弥陀仏の心によるものなので、必ず信心は起きます。


これに加えて書きます。
質問の中にあった。「私には阿弥陀仏の本願を信じる心がさらさらもありません」というのは、その通りです。信心が起きる源泉のようなものは、私にはありません。ですから、念仏や聴聞というのは、井戸掘りのようなものではありません。


たとえば井戸掘りや温泉探しならば、穴を掘り続けていけばやがて、地下水や温泉が湧いてきます。日本では温泉は1000メートル掘ればだいたいの場所で出るともいわれています。
そのように、自分の心を念仏と聴聞で掘っていけばやがて「信心」という泉が湧いてくるイメージを持つことは間違いです。

では、何によって信心は起きるのかといえば、親鸞聖人の正像末和讃に以下のように書かれています。

(34)
釈迦・弥陀の慈悲よりぞ
 願作仏心はえしめたる
 信心の智慧にいりてこそ
 仏恩報ずる身とはなれ(正像末和讃 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P606)

お釈迦さま・阿弥陀仏の慈悲により、願作仏心(仏になろうという願う心)という信心はえさせていただけます。信心の智慧に入ってこそ、仏のご恩に報いる身となさせて頂けます。

このご和讃の「信心の智慧」について、このように書かれています。

【左訓】「弥陀のちかひは智慧にてましますゆゑに、信ずるこころの出でくるは智慧のおこるとしるべし」(異本)

「信ずるこころの出でくるは智慧のおこる」といわれています。
智慧が起こるといっても、私がさとりを開いて智慧を身に付けることではありません。阿弥陀仏の智慧によって信ずる心が私の上に現れてくるということです。


先ほどの、泉にたとえたものは阿弥陀仏の智慧の働きということになります。それは、南無阿弥陀仏となって私に届けられているものです。南無阿弥陀仏を聞き入れると、南無阿弥陀仏によって信ずるこころは出てきます。


念仏も、聴聞も自分の心を掘るような気持ちではなく、阿弥陀仏からの南無阿弥陀仏を聞いてください。ただ今助けるとの仰せと聞いてください。