安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「42 何をしたとて専修は専修」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

42 何をしたとて専修は専修

 全体祖師聖人の御信仰の、大精神より伺うて見たならば。現世祈祷は、絶対に御禁制になったものであろうか。私は決してそうではないと思わるる。


 なぜなれば、既に念仏の上にも、信心の上にも現世利益のあることを御示し下されて。現世利益和讃やら、現生十種の益まで御明かし下されてあるので明瞭である。若し絶対に、現世祈祷を御禁制の思し召しであるならば、斯かる御和讃などを、御造りなさるる筈はない。夫れでなくてさえ、現世祈りを捨て難いのは、御互いの人情じゃのに。念仏には斯の如き、現世利益のあることを、説いては聞かせるが。現世の祈りを、してはならぬぞということなら。祖師聖人ほど、無慈悲の御方はないことになる。


 夫れでは恰も赤子に剃刀を与えて、手を切ってはならぬぞ、というようなものか。又は猫の鼻先へ魚を出して、食うと叩きつけるぞ、というようなもので。今生にのみ耽っておる我々に対して、この世の利益きわもない、念仏をさしつけて。現世祈りをしてはならぬぞ、と仰せられよう道理はない。


 しかし是は、我等の方から祈らずとも念仏の中に現世の利益はあるのじゃから。念仏の外に、祈り心を出すのは悪いと申すか。夫れでは甚だ滑稽の話になる。お湯へ入れば、祈らずとも暖まる利益はあるから。暖かになりたいという、祈り心を出して入っては、ならんというような、馬鹿話になってしまう。死んで浄土へ参る利益のある、信心を頂いたものが。浄土へ参りたいという、願い心が必ず出るようなもので。現世の利益のある念仏を信じ称えておるものが。現世に利益あらしめたいという、祈り心の添うて出るのは、当たり前でしょう。その当たり前で出る心まで、出してはならぬというような教えでは。絶対他力が、丸で窮屈他力になってしまいます。


 尤も雑修ということは、聖教の上より調べて見ると、約六通り程もありますが。そのような講釈向きの話は御預かりとして、大体の上より考えて見たときに。若し事柄の上にも心の上にも、現世祈祷やまじないなどをしてはならぬということなら。


 先ず雑行の第一が、読誦雑行である。読誦雑行というは三部経以外の経を読むことである。然らば講者や学者が、法華経や維摩経を読んで御座るのは。事柄の上よりいえば確かに雑行である、学者となれば雑行しても差し支えないものか。


 イヤ学者の法華経を読むのは、後生菩提の為ではない。知識を研いて、布教伝道のためにするのじゃというか。その知識を研くというは、一身にとっては、必ず名誉や幸福を祈ってする仕事であろう。愚民が病気快復を、仏に祈るのはよくないが。学者が名誉幸福を祈って法華経を読むのは、邪魔にならんとしては、余り勝手過ぎる話しではあるまいか。研究や伝道の為に他経を読み、諸仏を拝んでも、雑行でないものならば。研究の為にまじないをやったり、伝道の方便に現世祈祷を御許しなされた御講師の行為も、敢えて雑修とはいわれぬ訳である。


 殊に朝夕の勤行の如きは、助業の礼拝讃嘆と、正定業の念仏と、助正ならべて修しておることなれば。事柄の上では確かに雑修である。しかし助正兼行の仕事でも報恩行とするならば、雑修の失を免るるとして見れば。祈祷やまじないも、或る場合に於いて、報恩の意味より行うたものならば。決して雑修とはならぬ訳である。


 斯の如く、話を推し詰めて来て見ると。何が事実雑行じゃやら、何が全く雑修じゃやら、事柄の上では画然と決めることは出来そうもない。


 ソコデ今度は皆様も、一分々々に我が心のうちへ、立ち入って考えて見てください。儀式作法を用いて迄の、現世祈りはせぬとしても。心の上で此の世の祈りをせずに御座る御方はあるであろうか、私は全くなかろうと思われます。子供にせよ、我が身にせよ、家内に病人が出るとするか、又は災難でもかかって来たとするか。


 その時には、まさか医者を止めて観音様へ走るの、神官を招いて祓いをするのという、手荒な祈祷は御互いに、する気遣いはなけれども。治る病気なら、如来様が必ず治して下さるる、逃れる災難なら、一時も早く軽くすまして下さるるから、念仏するより外にないと、覚悟をしてはおるものの。その覚悟の南面には、災難を逃るる病気の治るよう、確かに祈り願うておるではないか。その証拠には病気が治れば、是も仏の御陰様じゃと、自らも思い、人にも是をいうておる。是が正しく、仏号をむねと修すれども、現世祈りはやめもせず。申し訳して、現世祈りでないことにしておる、精神的のかたちである。


 是によって私は大体に於いて、雑行雑修ということは。事柄の上や、凡夫の心の上では、とても決めることは出来ぬので。飽くまで信心の有無に依って決めるより外はないことと思わるる。


 既に祖師聖人は、朝家の御為、国民の為、念仏せよ、と大いなる祈祷を提唱したまい。且つは公務の為なら、熊野参りも平太郎に御許しなされた。殊に曇鸞大師は、筋違いを患いなされたとき、木瓜の名を持って呪うて、我が身に其の効を得たりと、喜んで御座られた。


 この様なことを、広く調べれば何程もあるが。要するところ。
「迷情の四句は四句皆非なり、悟情の四句は四句皆是なり。」
 迷いの仕事は何事もわろし、証の仕事は何事もよいというようなもので。既に初果の聖者となると、睡眠懶惰の悪時をしても、二十九有の迷いの種とならぬ如く。信心決定の行者なら、正定不退の初果の位であるゆえに。時に祈祷や、まじないをしても、雑修となる気遣いはなく。信心未定の人ならば、たとい祈祷をやめてはいても、専修専念とは申されぬ。心が不至心であるならば、矢張り雑修の失となるべき次第である。