安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「45 現世利益和讃」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

45 現世利益和讃

さて今日は、皆様から現世利益和讃の大体について、一応味わって頂きたい事であります。そもそもこの念仏に、現世利益のあることは。親鸞の臆説ではないぞというので、先ず初めに金光明経を以て、息災延命の利益を示させられ。次には、他宗の祖師の伝教大師を証拠に出して、七難消滅の利益あることを御述べなされ。其の次に、いよいよ。
「一切の功徳に勝れたる、南無阿弥陀仏を称うれば」と標榜して。而もその称え心の善し悪しは御詮議なく。自力他力はどちらでも、口に称うるものならば。三世の重障軽微なり、重い災難を軽くすまして貰わるる。又其の次に、此の世の利益きわもなく、たとい若死にするものも。できる限りの長命をさせて頂く利益がある。夫れのみならず、梵天帝釈諸天善神堅牢地祇や難陀跋難。閻魔法王や五道の冥官の尊敬をうけ。善い事ならば、何の邪魔でもしてやろと。かかって御座る第六天の魔王まで、念仏申す人だけは、守りましょうと誓うて御座る。

南無阿弥陀仏をとなふれば
 四天大王もろともに
 よるひるつねにまもりつつ
 よろづの悪鬼をちかづけず

この一首の御和讃だけでも、皆様は何程の御利益と思われます。世間の金満家の中には、随分寝ずの番爺というものを、雇うて御座るようじゃが。昼は寝たり起きたり、碌々仕事もさせずして。夜になると、寝ずにかかって屋敷の番をしておるのじゃ。仮にこの和讃を作りかえて。
「南無阿弥陀仏を称うれば、五十余りの爺さんが、昼は寝ていて夜護る、万の泥棒の番をする。」
として見ても、一年間給料から食費をかけて、二三百円の御利益が、念仏にあることになる。


 然るにこの念仏を称うれば、五十余りの爺出ない。四天大王諸共じゃ、広目天も、持国天も、増長天も、多聞天も。昼は寝ていて、夜護る、ソーでない。夜昼常に護りつつじゃ。外から入る、泥棒位の番ではない。奥の座敷に寝て御座る、旦那様や奥様の、心の中まで攻めかける。悪鬼羅刹や煩悩までの、番をして下さるる、尊い御念仏として見れば、何程の御利益とも、測り知られるものではない。


 こんな和讃が十五首もある。終わりの四首は、信心の得益となってある。信心というも念仏というも、その体六字の名号にして。信じた心や、称えた口の手柄でない。称えられたる名号に、こんな尊い御利益の。有りと知られた、うえからは、称えずにおるのは御損で御座る。極楽参りは抜きにして、此の世ばかりの利益でも、捨てておけない御念仏。幾ら利益があったとて、所得税がいるでなし。幾ら称うるとして見ても、手間ひまかかるのでもない。手足は此の世の用事に使い、隙のお口に称えさせ、儲けは山々ありますぞ。サァ皆様も一生懸命、称えて得とる工面をなされ。


「成る程その様に御利益のなる御念仏なら、是から称えても見ましょうが。余り称えては、自力になるような気遣いはありませんか。」

「称えて自力になる人なら、称えんでおればなお自力。自力他力の心の詮議じゃ、そんな詮議はあとにして、称えなさるが何よりじゃ。」

「現世利益の念仏では、雑行雑修になりませんか。」

「成るも成らぬもかまやせん、くよくよせずに御称えなされ。」

「そんな御心配があるならば、暫く極楽参りを見合わせて、御懸かりなさい。此の世の儲けをたっぷりして、死に場になってから御やめなされたらそれで善かろう。」

「夫れでは余り都合が良すぎて、危険のようでありますから。現世祈りの念仏はやめにして、御恩報謝の念仏を称えましょう。そうすれば雑修になる気遣いもなく、此の世の利益もあるに違いない。」

「夫れも中々都合の良すぎる話です。雑修にもならぬよう、現世利益もあるように。御恩報謝の看板掛けて祈らぬ振りして内緒で祈る曲者じゃ。人間同士は許しても、仏は御許しなさるまい。どうせ如実でないならば、一層のことに現世祈祷の看板掛けて、念仏なさるが結構である。」


 サァ皆様解りましたか、定めて御解りになりますまい。兎角皆様は、これ思うたら自力になろうか、これしたら雑修になろうか、祈りをしてはすむまいか、報謝というたら善かろうか。と機の扱いをなさるが、残らず雑修というもので、どちらにしても本願の正意に帰入して御座らぬのじゃ。


 全体阿弥陀如来は、我等凡夫を助けるに、何故現世祈祷を、御嫌いなさるるのであるか。我等平生の日暮らしは、金銭のことでも、家財のことでも、祖先のことでも、妻子のことでも。あらゆる貪着を起こしておる有りだけは、現世の幸福を祈ってする、仕事の外は更にないのじゃ。煩悩起こして現世の幸福を祈ることは、往生に差し支えはないが。念仏を称えて現世を祈ることは、差し支えになるというては、そもそも解らんことである。


 殊に念仏で現世を祈ることは、飴を盗みの道具に使うような、お門違いではないので。阿弥陀如来が態々この世へ来化して、息災延命の為にとて、御説きなされた寿量品があるうえは。現世祈りに念仏するは、却って如来様の思し召しに叶う事であろうと思われる、依って私は、不至心にして現世を祈る行者なら、これも雑修と名づけてぞ、千中無一と嫌わるる事なれど。至心信楽の行者なら、現世祈りは強ちに嫌うべきものでないゆえに。祖師聖人は、現世利益和讃を造って、かかる広大の利益あることを、我等に御示し下されたものと伺われることであります。