安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「44 しめ縄と心霊治療」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

44 しめ縄と心霊治療

 次にしめ縄問題は、余り子供らしい騒ぎで、御話しにもならぬことなれど。一応私の考えを申して見ましょうが。神道に於いては、いかなる意味でこのしめ縄を、扱うておるか知りませんが、それは今の所論でないとして。先ず御大典の飾りに用いる位は、さほど費用もかからぬ随分神々しくて、面白い相談であったと思われます。


 まさか、しめ縄を信仰せよというのでもあるまい、又信仰する気遣いもない訳じゃ。そのしめ縄を張った位で傷つくような不甲斐ない御宗旨でもあるまいに。抑しめ縄がなんである、私の本堂をしめ縄で八重からぎにしても。真宗の光はそのしめ縄を通して十方に輝くに於いて、何の障りのあるものか。執達吏の、差し押さえの札を、箪笥に張られたよりも、恐ろしいことのないしめ縄を。張るの張らんの、と石動だは。何ぞの行き掛かりもあったであろうが。


 つづまるところ、見慣れぬことに驚いて、騒いだまでのもので。山中の馬が、初めて汽車を見て、飛び騒いだも同然のことである。加賀の金沢では、毎年祭礼になると、各宗を問わず、町内残らずしめ縄を張っておるが。それで仏法の恥辱とも思えもせず、神官の名誉ともしてないので。慣れてしまえば、平気で過ごさるる事柄を。慣れぬおかげで、ワイワイと言い立てて、而もある一派では、この問題を以て、勧財にまで利用したなどという話が伝えられては。実に沙汰の限りというものであります。


 次に心霊治療の問題。これも聞きなれたことのない学者が、何ぞ変わったことのように思うて驚いたので。心霊の作用に依って身体の治療が出来るなどというとは、内典の中にも、外典の中にも、沢山ある御話しで、何の珍しいことではない。

 かの唯識宗にいうておる、四食の中に。思の心所を以て、身体を養う思食の説の如きは。名称こそ違うものの、事実心霊治療の確証である。然らば、心霊治療の如きは、仏者として当然心得おくべき筈のものである。

 今日のお医者さんなどが、重患のことを、病人に知らさずにおいたり。不治の病であることを、本人に聞かせてはならぬなどということは。是も一種の心霊治療に属することにして。既に心霊の作用に依って、病に進退のあることを、御存知のお医者様なら。一歩進んで、不治の病人には、その趣を説き聞かせて、これを安心立命の場所まで導いて、治療をしてやったら、一層好結果を得るものでもあろうが。宗教と没交渉のお医者様では、とてもその様な親切の出来るものでは無い。菩薩方の五明の中にも、医方明というのがある。その医方明の多分は、心霊より治療するのが、肝要となっているようである。その心霊を秩序的に、他動的に、考究治療するのだ、今日の心霊治療として見れば。何の驚くことはない、魔法でも手品でもないのである。夫れが雑修となるも、ならぬも、全く話し外というものじゃ。神や仏に病気病何を、祈祷しても効き目のあるのも。一つは神仏の御利益もあるに相違ないが、一つは祈るその人の心霊の作用に依って、よくなるのであろうと思われます。


 然るに、真宗の学者の中に。神仏に祈祷することを、一切迷信としてしまい、而も利益などは決してないように考えて御座る人もあるが。夫れは御自身が、偏屈の信仰かぶれをして御座る狐狸や草木に向かうて、勝手気儘の祈祷をするなら、迷信と言わねばなるまいが。釈迦の経文や、相伝の教義に依ってするものなら、決して迷信というものでもなく、且つ又相当に利益もあるに相違ないのじゃ。若し経説に依って、神仏に祈祷するのが、一切迷信で而も利益がないものなら。極楽参りも迷信となってしまい、名号六字も利益のないことにせねばなりません。


 門外漢ならいざしらず、かりそめにも、仏語に虚妄なしと信ずるうえは。たとい真宗で用いぬにせよ、地蔵様や観音様に、現世利益のあることは勿論にして。殊に金光明経の寿量品に説かせられた、息災延命の御利益の如きは、名号六字の上に。有って余るいわれあることは皆様からも確信して頂きたいことであります。この故に天台宗の伝教大師も、国土人民をあわれみて、七難消滅の呪文には。外の祈祷をするよりは、南無阿弥陀仏を称うべしと御勧め下され。吾が祖聖人も、現世利益和讃を造って、念仏の功徳の広大なることを御知らせ下された次第であります。