安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「46 絶対の現世祈祷」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

46 絶対の現世祈祷

然らば汝自身は、現世祈祷をするかや、と御尋ねなさる御方もあろうが。「私は常に常に、絶対の現世祈祷をしておる。」と断然御答えを致します。目が悪いで御不動様、腹が痛いで地蔵様というような、小安い祈祷は致しません。夫れは観音様や地蔵様を、馬鹿にしておるのでもなく、嫌うておるというのでもない。みんな尊い御方にして、利益もましますに相違はない。しかし、私は、そのような神や仏に祈る用事は、ないというよりは、祈っても、私には効き目がないのには困っています。なぜなれば、諸神諸仏より百千万倍、より以上に功徳のある、南無阿弥陀仏を、常に信じ、常に行じておるこの身なれば。諸神諸仏の有りだけに、昼夜不断に護られてあるものなれば、この上に起こる病気災難は、何処へ祈るに場所もなく、何様頼んでも効き目がない。亭主一人の親切で、不足がないから、外の男に用事はない、というような、アダな話と違います。あらゆる仏や神様の、ご厄介になりづめにしておる身の上に。集まってくる災難は、とても逃れる道はないから、世間普通の小安い祈祷は御免蒙る次第であります。


そこで信心未決の人々は、常に諸仏菩薩に守られてない御方ゆえ。病気災難に遭うたときは、地蔵様でも観音様でも、手近いところで、ご祈祷なさるが結構です。多少御利益のあることは、請け合いであります。御利益が見えたら、自分は信心未定であると覚悟なされて、多分の誤りはありません。どうせ信心未定にして、祈祷をなさることならば。諸仏菩薩に祈るより、一心不乱に念仏で、ご祈祷なさるのが、結句御為になろうと思われます。地蔵様で十日もかかる病気なら、念仏で祈って御覧なさい。三日か四日で請け合い治ってしまいます。念仏で治らん病気なら、観音様で治る道理はないのです。日本一の名医にかかって治らぬものが、やぶ医者にかかって治る理屈はない如く。若し治ったら、やぶ医者や地蔵様の手柄でない、病気に治る時節の当来したのでありましょう。


兎も角も、信心決定した人は、現世祈祷の利益なし、信心未定の人ならば、時には祈祷の利益があるものと、決着して頂きたい。その故は、信心決定の人々は、今更別に祈らずとも、常に現世の利益ありづめにしてあるので。信心未定の人々は、時に祈ったその外に、常に利益を受けてないのじゃ。


私の家に富山のクスリが三軒から来ています。格別家のものは飲まぬようでも勘定の時には一円二円と取られるから。誰が飲んだのかと尋ねると、権や八の貧乏者が、時々貰いに来るというので。こんなクスリが、彼等に効くかといえば。権の嬶の大熱が、感応丸二粒で全快した。八の亭主は、妙振出一服で風邪が治ったという。家のものには効かん薬が、権や八には効くというては不思議のようじゃが、これは常に薬を用いぬものには、つまらん薬も効くものであるが、常に薬を飲みつけて、少し悪いと直ぐ医者から診てもらって。適薬ばかりを用いておるものには。富山の売薬位では、とんと効き目がないのである。


諸神諸仏は富山の売薬も同然のもの、南無阿弥陀仏は、中道府蔵の霊薬である。平生に府蔵の霊薬、南無阿弥陀仏を信ぜざる人には、地蔵様や観音様の売薬でも、祈祷すれば効き目もあるが。常住不断に六字の妙薬を、用いづめにしておる我々には。諸仏菩薩の売薬では、とても効き目はありません。そうして見れば、諸仏菩薩を嫌うて願わぬのでもなく。往生の邪魔になるから祈らぬという、未練の話でもありません。効き目がないとなって見りゃ、仕方なくなく諸仏菩薩に、祈る用事は尽きてしまうた次第であります。


然らば私が常に絶対の現世祈祷をしておる、というはそもそも何であるかというに。夫れは申す迄もない、頂き奉りたる信心一つであります。この信心は、長生不死の大祈祷転悪成善の大利益、その他現世に広大の利益のあることは。宗祖大師より懇ろに、御聞かせを蒙っておる次第であります。これは観音様や地蔵様へ、毎日百度参りするよりも効き目のある。世間に並びのない、絶対の大祈祷であることを、私は確信しております。独り此の世の祈祷になるのみでない。証大涅槃の真因、往生極楽の捷径は、この信心の外にないことであります。


しかしこれらは、信心当体の御利益であるから。現世のことに、祈り心を出してはすまぬの祈らずとても神や守るのと。そのような窮屈のことまで、詮議する必要はありません。私は現世に於いて祈り後頃は、毎日のように出しています。又出さずにはおれません。去りながら、利益が有るか無いかというような、不定の祈りでもなく。何卒利益あらしめたいという、ねだりがましい祈りでもありません。私の祈りは、作得生想の願心の如く、決定往生の願心の如く。決定の祈りであります。獲得の祈りであります。不断の祈り、不退の祈りであります。


孔子様が。「丘や祈ること久し。」と仰せられたも、この辺の消息と、同じ意味かと思われます。子路は、孔子の病気を天地の神祇に祈らんとした。孔子は、平生に於いて道徳仁義を行うておる。これが不断の大祈祷にして、この上の病気は天命であるから、あらためて祈る用事はないと仰せられた。


然らば今日の我々も、人間の道徳仁義位の祈祷ではない。如来回向の大信心を、獲得したるものなれば。不断の祈り心は信心である。決定の祈りの声は念仏である。この念仏の信心に依って、死んで未来は言うまでもなく、生きて此の世の幸福は、祈り得て余っています。父母を養い、妻子を育て、衣服飲食何一つ、自分の力として得かねるものが。不足もなく、寒暑を凌がして頂くのも。残らず如来様より決定して祈り得たる、現世の幸福と思うています。この上の病気災難は、自身の宿業。祈って逃れる道もなく、願うて転ずる策のないことと、覚悟しておりまする。古来の学者が、不祈祷にして無祈祷に非ずと仰せられたも、同様の意味かと思われます。


これは只。「祈祷」という文字や、言葉を非常に恐れて。不祈祷であるの、無祈祷でないのと。回り遠い講釈をしたまでのもので、無祈祷でなかったら、確かに祈祷である。その祈祷たるや、通常一般の祈祷でない。善導大師が、皇帝の為に祈らせられたも、宗祖大師が、朝家の為に念仏なされたも。必ずや絶対の祈祷、不断の祈祷、決定の祈祷にして。実は他力廻向の御信心、その体南無阿弥陀仏の妙用であると思われます。