安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀仏の本願は聞いて納得しています。しかし、疑いは晴れません。どうしたらいいでしょうか?」(頂いた質問)

「阿弥陀仏の本願は聞いて納得しています。しかし、疑いは晴れません。どうしたらいいでしょうか?」(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願を聞いて納得はしているんだけど、疑いは晴れないというお尋ねです。お尋ねされた方は、どういうことを「疑い」といわれているのかを考えて見ます。


一般では、「納得」したら「疑い」はありません。「納得できない」ことに「疑い」が出てきます。最近の事例で言えば、殺人事件で有罪判決を受けていた夫婦が、再審請求を受け入れられ釈放されるということがありました。これは、裁判所が今までの検察の証拠に「納得できない」ところがあり、有罪ではないのではという「疑い」が出てきたために再審することになりました。反対に、明白に有罪である証拠があれば、有罪である事に「納得」して、有罪ではないのではという「疑い」は出てきません。


そう考えますと「納得」したけど「疑いが有る」というのは、一般ではありえないことになります。つまり、質問された方は納得したといっているが、実は納得していないということになります。


では、質問された方の「納得」とはどういうことを指していわれているのでしょうか?言い換えれば「頭では分かるんですが……」「理屈はそうなんですが……」ということだと思います。私もそう思っていました。


具体的にいいますと、「確かに私がなにかをしたから救われる手助けになるはずはない」「末法の世に凡夫が仏になれる道は、確かに阿弥陀仏の本願以外にはない」「修業をしろといわれても、1時間の話しを聴聞してもいろいろ考えてしまうような私には、行などできないのだから、南無阿弥陀仏の救いによらねばならない」などなどです。


これらに共通している事は「理屈はそうだ、だけども……」というところです。つまり阿弥陀仏の本願は、「理屈の上では末法の凡夫が仏になる道はこれしかない」のですが、「そんなことはありえない」と思うのが私の「考え」です。その私の「考え」は、阿弥陀仏の本願を「納得」出来ません。なぜならば、私の常識からはありえないからです。というのは、何事も商業的なやりとりで換算してしまう現代人にとっては、阿弥陀仏の本願も「割に合うかどうか」で考えがちです。そのような損得勘定でいえば、阿弥陀仏の本願というのは、私目線で言えば非常に「割に合わない」ものです。なぜなら、「私一人を助ける」ために「五劫思惟と兆載永劫の修行」をされているからです。なぜ「私一人」を助けるために、それだけのご苦労をされるのかと考えると、損得勘定で言えば丸で割に合いません。例えて言えば、一人を助けるために、何百、何千、何億という命を犠牲にするようなものです。


そんな本願を聞き入れることがあるとすれば、それは直接阿弥陀仏の本願を聞くより外にありません。どんなに「あり得ない」ことでも、それが目の前にあれば、私の考えや損得勘定は消えてしまいます。


例えば、村上春樹の小説「1Q84」では、主人公が「1984年の日本」から「1Q84年の日本」に紛れ込んだ象徴として、月が二つある世界が描かれています。月が二つあるとは、「私の世界」では「あり得ない」ことです。しかし、それを目の前にして、周りの人もテレビのニュースでもそれが「大事件だ」「あり得ないことだ」と報じないことで、小説の主人公はそれを受容していきます。

1Q84 BOOK1-3 文庫 全6巻 完結セット (新潮文庫)

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同じように、南無阿弥陀仏が私を救うということは、「私の世界」では「あり得ない」ことです。しかし、現に目の前に「南無阿弥陀仏」と聞いてみれば、私にそれを否定する材料はありません。納得するとか、しないという問題ではなく、「そういうものだ」と聞き入れてください。そこには「疑い」はありません。

あり得ないことでも、聞いたらそれはあり得るどころか、そういうことなのだと、親鸞聖人は御和讃にこう書かれています。

超世の悲願ききしより われらは生死の凡夫かは 有漏の穢身はかわらねど 心は浄土に遊ぶなり(帖外和讃)