安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

南無阿弥陀仏は阿弥陀仏が「名無しの凡夫」につけて下さる私の名前です。

ここ何回かのエントリーで、南無阿弥陀仏のすがたとか、六字のいわれについて書いてきました。

その名号を聞いているのが信心ですから、親鸞聖人は名号を聞くの「聞く」ということについて

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(教行信証信巻末_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P251)

http://goo.gl/fw2nQ

といわれています。

「仏願の生起本末を聞きて疑心あることない」のが「聞いた」ことだといわれています。「仏願の生起本末」とは、阿弥陀仏が私を救う本願を建てられた由来と、その本願が成就して現在南無阿弥陀仏となってよびかけて下さっていることをいいます。


喚びかけるということは、私に向かって「ただ今お前を救う」と阿弥陀仏が名を告げられることなので、南無阿弥陀仏のことを名号といいます。しかし、この名号は、単にご自分の名前を名乗られているのではありません。私に向けて名を告げられているのですから、聞いた私の方から言えば、それは「私の名」と聞くものです。


善導大師は、この南無阿弥陀仏の喚び声を二河白道の譬で

なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。(教行信証信巻引文より浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P224)

http://goo.gl/DWjLs

と言われています。

ここで「なんぢ(汝)」と喚ばれているのは誰かといえば、「私」のことです。「誰か」に言われていることではありません。また、一方的に阿弥陀仏が自分の名前を告げられているのが名号ならば、私にとってあまり関係のないこととしか思えません。例えて言えば、選挙カーが候補者の名前を連呼しているのを聞いているように感じてしまいます。国政選挙をはじめ、選挙は自分に無関係な話ではありませんが、「みなさんこの度、立候補した○○です」の「みなさん」に自分は入っているものの、聞いた側としては「みんなに言っているのだろう」くらいに聞いています。


しかし、相手が誰であれ自分の名前を名指しで言われれば「自分のことだ」とわかります。また、実名を呼ばれなくても、よぶ相手が「そこの貴方」と私にめがけてよびかけると「それは私のことだ」と判るものです。人間の発声の世界でも、背中を向けた5人の中の一人にめがけて声をかけると、声をかけられた人は自分が呼ばれたことが判るとのことです。


阿弥陀仏は、私めがけて「南無阿弥陀仏」とよびかけられています。しかも、本願が成就していらずっと過去から私一人に「南無阿弥陀仏」と呼ばれています。それを聞いた私は「南無阿弥陀仏とは私のことですか」と聞くのが、名号を聞いたといいます。そこで南無阿弥陀仏は私の名となり、私が南無阿弥陀仏となります。その名のとおりに、私は浄土に往生し仏に生まれることができます。阿弥陀仏が名号を私にさし向けられるということは、現在の私にとって分かりやすい言葉で言うと、私に名前を与えてくださるということです。


戸籍上の名前はあっても、本当の名前を知らないのが私です。名前を知らないということは、自分が何者かを知らないということです。そのため、自分が何者であり、何処から来たのかも何処へ行くのかも知らずに生死を重ねています。その私に向けて、阿弥陀仏は南無阿弥陀仏と名のられて私に本当の名前である南無阿弥陀仏と名づけてくださいます。南無阿弥陀仏は、仏の名前ですから、その名を付けられた私は仏の子となるのです。阿弥陀仏から「名無しの凡夫」に仏の子と名づけて頂いたことに疑い無いことを、名号を聞いて疑い無い信心と言います。