安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「私は、現在念仏を称えています。報土は無理でも化土には行けるのではないかと考えています。このように考えるのは間違いでしょうか?」(頂いた質問)

私は、現在念仏を称えています。報土は無理でも化土には行けるのではないかと考えています。このように考えるのは間違いでしょうか?(頂いた質問)

よく勉強されている方が言われる質問かと思います。なぜなら、親鸞聖人も化土往生する人が多いと御和讃にかかれているからです。

(93)
報の浄土の往生は
 おほからずとぞあらはせる
 化土にうまるる衆生をば
 すくなからずとをしへたり
(高僧和讃)


こう聞きますと、「報土往生は難しそうだけど、化土なら行けるのでは?」と考えてしまいがちです。しかし、この御和讃は、そういう考えを戒めておられるものです。言い換えれば、折角阿弥陀が報土を用意され、そこに往生せよと本願を立てられているのに、化土に行く人が多いことを戒めておられるということです。


阿弥陀仏の本願は、本当に願われている事は、あくまで報土往生です。それを、わざわざ「化土でもいいや」と思うのは、心情としてはわかりますが、阿弥陀仏の本意ではありません。


親鸞聖人は、そのような報土と化土の区別もなく念仏すればなんとかなると思っている自力念仏の行者に対して大変厳しいことをいわれています。

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。(教行信証化土巻)
(現代文)
悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、迷いの世界を離れることがない。果てしなく迷いの世界を生れ変り死に変りし続けていることを考えると、限りなく長い時を経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海にはいることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。

平たく言えば、自力念仏の人は、助かりませんよと言われています。

報土は無理でも化土があるというのは、あくまで私の世界でのことです。阿弥陀仏の本願からいえば、報土往生がそれこそ本願なのです。本願を聞いて、念仏して報土往生する身になってください。ただ今救われます。