Aさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
A 2017/04/17 19:53
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170413/1492081569#c1492426418
いつも御教示頂きありがとうございます。質問がありますので教えて下さい。
今の私には阿弥陀仏の本願への疑いはありません。「本願を信じ念仏する者を浄土へ迎え取る」というお言葉を聞いて「さようでございますか。ありがとうございます。」と聞き受けているだけです。阿弥陀仏のことは何もわかりません。浄土のこともわかりません。念仏一つで助けると聞いても実感は湧きません。念仏一つで助けると仰っているから、そうか念仏一つで助かるんだなと受け入れているだけです。南無阿弥陀仏によって私が浄土往生出来るかという確信もなければ、南無阿弥陀仏に私を往生させる力や功徳があるかの実感もありません。ただただ、本願のお言葉を「そうでございますか」と受け止めているだけです。
浄土真宗の信心とはそういうものなのでしょうか?
この先も聴聞を続けて確認しなければと思っているのですが。
文面だけではなんともお答えしづらい質問です。といいますのは、「今の私には阿弥陀仏の本願へ疑いはありません」というのが、どういう意味で言われているのかが、今一つ分からないからです。
確かに「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」が信心の相ですから、「疑いがない」ということが本当ならばそれは、信心だと言って差し支えはありません。
私からは、Aさんの文面を読んで「そうですよ」という事はできません。なぜなら、会ったこともない人の信心を(会っていたとしてもですが)認定することはできないからです。仮に私が「貴方の信心は間違いない」と言ったところで、私の言葉をたよりにする信心は非常に危ういものになってしまいます。といいますのは、仮に「さっき貴方の信心は間違いないと言ったけれど、あれは勘違いだった」と言ってしまうと、崩れてしまう信心だからです。
しかし、Aさんのコメントからすると、Aさんは信心について以前は以下のように思っておられたということは分かります。
- 信心決定したら阿弥陀仏のことがいろいろと分かる。
- 信心決定したら浄土のことがわかる。
- 信心決定したら浄土往生の確信がある。
- 信心決定したら南無阿弥陀仏の功徳を実感できる。
上記のようなことを以て「私は信心を獲た」というのは間違いです。なぜなら、「智慧の拡張」が信心の証明といっているようなものだからです。
考えて見ますと「阿弥陀仏のことが分かり」「浄土のことが分かる」のは、本当の意味で言えば仏様でなければあり得ないことです。親鸞聖人は、凡夫が凡夫のまま往生することを教えられました。凡夫があるとき、聖者や仏になってから浄土往生するとは言われていません。
これから聴聞され、確認されるということは、大変有り難いことだと思います。
少なくとも、当ブログの内容を読まれて引っかかるところがあれば、お知らせ下さい。