安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「35 六字の相なりとしるべし」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

35 六字の相なりとしるべし

 前席より御話しを申した、私の不審の点は、皆様にお解りになりましたか。世間一般に、御文の御定判通り、信相がなければならぬと。その信相を思いや心地の上に尋ねておるはよけれども。ただたのみ心やまかせぶりにのみ、力を入れて。発願回向の心も構わず、光明摂取の味もしらべずに御座るが、おかしい。それでは御文通りではありません。尤も廻向や摂取は弥陀の仕事に違いはなけれども。それが我等に届いたものならば、味や心地が明瞭に解らないでどうします。

 よって私は先ず第一に、毎日私の邪魔になる、罪や障りの消えた信相が欲しいと申すのじゃ。然るに、実際に於いては罪や障りの消えた心地もなく。煩悩妄念の失せた味わいは更にない。現在消えも失せもせぬものを、一時に罪消えてと仰せられては、甚だわからん。そこで罪や障りは起こりづめにして消えた心地はなくとも。御文通りに消えておるのじゃとするか。もし然らば、たのむ心地はなくとも、たのむ信相は御文通りに、別にあるとせにゃなるまい。イヤたのむ心地は、なけにゃならんとするか。然らば罪の消えた心地は、尚更なけにゃすまん、と飽くまで私は主張します。サァ皆様爰まで奥深く聴聞してありますか。


 この解決は、何も難しいことはない、信心獲得の御文へ移して頂いて見ると、忽ち解る。
 
 
されば無始以来つくりとつくる悪業煩悩を、のこるところもなく願力不思議をもつて消滅するいはれあるがゆゑに、正定聚不退の位に住すとなり。
とあります。
 この「いはれあるがゆゑに」と仰せられた御言葉を、見落としてはなりません。悪業煩悩を消滅した心地があるか形があるか。イヤ消滅する「いはれ」がある。「これによりて「煩悩を断ぜずして涅槃をう」といへるはこのこころなり。」と御結びなされてある。然らば何の中に、そんないわれがあるのであるか。それは申すわでもない、信心獲得した南無阿弥陀仏の六字の中に、罪障消滅のいわれがある。罪障消滅の御いわれが、六字の中にあるならば。発願回向も六字のいわれ。光明摂取も六字のいわれ。たのむも縋るもまかせるも。思いや心地のことではない。心に六字があったなら。あった六字のいわれである。


 右も左も借金だらけ、米屋も酒屋も呉服屋も、菓子屋肴屋小間物屋。友達朋輩借り尽くし、せっぱつまって夜逃げの仕度。している矢先へ、郵便と一本舞い込んだ。封を開いて見たところ、アラ有り難や。親の手元から百万円の、為替手形が送られてきた。この手形の息子に届いた一念に。造りと造る借金を、一時に消滅するいわれがある。受け取った息子の心に、そんないわれがあるのでない。届いた手形に返すいわれがこもってある。返しもせない借金を、残らずかかえたそのままで。返す謂れの有り余る。いわれのこもった手形なら。安堵の出来る手形のいわれ、心配ないも手形のいわれ。たのみとなるも、力にするも。思いや心地の詮議は要らん。手形一枚あったなら眠っていてもよりかかり。忘れていてもよりもたれ思う思わん世話なしに。決定の相をあらわさば、届いた手形の外にあるまい。


 今日御互いの我々も、首も回らぬ後生の借金。五道六道借り尽くし、日の穴さして落ち込む外にないところへ。知識の郵便脚夫より、投げ込まれたが六字の手紙。封を開いて見たところ、アラ有り難や無上甚深の百万円。親の身代有る丈の、為替手形南無阿弥陀仏。聞こえて届いた一念に、無始より造った罪科の。借金かかえたそのままで、残らず一時に消滅のいわれのこもった六字なら。安堵の出来るも六字のいわれ、心配ないも六字のいわれ。たのむも縋るも任せるも、思いや心地に用事はない。忘れて眠っておるときも、六字一つがあったなら、それでいわれがありあまる。


これによりて、南無とたのむ衆生阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなはちわれら一切衆生の平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり。されば他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。」とあれば。たのむというも六字の道理。助けるというも六字の道理。六字が他力の信ならば、此の機なぶって信相を。せめ出す世話のないうえは、後念相続の一段は、此の機に油断をしないよう。手の舞い足の踏むところ。間違いなく念仏相続いたせよが。真俗二諦の御教えである。