安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「私にも阿弥陀仏の願力は働いているとは聞きますが、正直なところ何も感じません。何か感じるようになったら救われるのでしょうか?」(頂いた質問)

私はまだ阿弥陀仏に救われていないと思っているものです。そんな私にも阿弥陀仏の願力は働いているとは聞きますが、正直なところ何も感じません。何か感じるようになったら救われるのでしょうか?(頂いた質問)

南無阿弥陀仏のお働きは、具体的には私の口から出てくるこの「南無阿弥陀仏」がそのおはらきの現れです。反対に、それ以外に「どこか遠くから不思議な喚び声がする」とか「空から一筋の光明が差し込む」とか「まぶしい光が目の前に現れる」などなどということはありません。菩薩や聖者ならばそのように見えたりする人もあるでしょうが、末代の凡夫である私にはそのようなものを見たり感じ取ることはできません。

しかし、この南無阿弥陀仏と私の口から出ているということが、阿弥陀仏の願力が現在働いている証拠です。また、それ以外には私のこの耳で聞こえるものはありません。そこで、そんなたよりなく感じる南無阿弥陀仏で助かるのだろうか?とか、それ以外に何かお働きの「証拠」があるのではないかとか、「手がかり」がないと助かる気がしないなどと考えてしまいます。


そこで前回紹介した自然法爾章から一部紹介します。

弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。(自然法爾章)

この自然というお言葉は、南無阿弥陀仏それ自体が私を「救うようになっている」「救うように働いている」ということです。そこで、阿弥陀仏の本願は最初から私の考えとは関係なく、南無阿弥陀仏にまかせるようにして、その人を迎えとるようにされています。そのため、私がこうしたら救われるだろうかとか、こういうことでは救いから遠ざかるのではなかろうかという考えを離れたお働きを「自然」と言うのだといわれています。

ちかひのやうは、「無上仏にならしめん」と誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときは、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。(自然法爾章)

阿弥陀仏の本願は、一言で言えば「無上仏にする」というものです。つまり、阿弥陀仏と同じ仏にすると誓われたものです。しかし、無上仏とは、かたちもありませんので「自然」といわれます。もし、形があったならば「無上涅槃」とはいわれません。形もないことを知らせるために、始めに「阿弥陀仏と名のりをあげられた」のであります。「阿弥陀仏」とは自然を知らせるためのものなのです。


このことから分かる事は、質問者さんが「阿弥陀仏」という名を出しておられること自体が、形もない阿弥陀仏がその救いを明らかにされた形そのものなのです。さらに言えば、「阿弥陀仏」という言葉を口にしたり、頭に思い浮かべることが出来ているという現実が、阿弥陀仏のお働きの現れなのです。


その阿弥陀仏の本願の謂れを、自然法爾章から言えば「無上仏にならしめん」(無上仏にする)です。私が実感できようが出来まいが「無上仏にならしめん」と常に働いているのが、南無阿弥陀仏のお働きです。しかし、そのお働き自体は何か特別な体験をして知らされるものではありません。


私が口にしている南無阿弥陀仏、また私が聞いている南無阿弥陀仏の謂れを聞いて疑い無いのが信心です。「それ以外のなにか」は、阿弥陀仏の救いにはありません。自惚れ心を粉砕するために○○をせよとは阿弥陀仏は言われていません。「ただちに来れ」(助ける)が阿弥陀仏の仰せです。