安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「生死を離れたことが何らかの形であらわれないと本願通りに救われたかどうかわからないと思うのですが、どういった形であらわれるものなのでしょうか。」(sさんのコメントより)

s 2018/08/13 23:34
早速お答えいただきありがとうございます。
生死を離れると聞いてまた疑問が出てきました。
生死を離れたことが何らかの形であらわれないと本願通りに
救われたかどうかわからないと思うのですが、どういった形で
あらわれるものなのでしょうか。
それがないと人ごとに救いの中身が違ってもわからないと
思うのです。
「弥陀をたのむ」ことと「生死を離れる」ことは切っても
切れない自明の関係なのでしょうか。
それとも間接的に「生死を離れた」とわかるのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180813/1534133102#c1534170892

「生死を離れたことが何らかの形であらわれないと本願通りに救われたかどうかわからないと思うのですが」とのことですが、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなしとなれば、そういう疑問は起きません。


その理由は、生死を離れたといっても、煩悩具足の凡夫であることは臨終の一念にいたるまでかわりません。そんな凡夫が、生死を離れたかどうかを知る「智慧」は身に付くものではありません。ただ、南無阿弥陀仏に疑い無いという点で、「あは、はやわが往生は成就しにけり」(リンク先参照)ということがあります。


その意味では、人ごとに救いの中身が違うことはありません。なぜなら、自分の心をみるのではなく、南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いという、いわゆる法を仰ぐという意味では違いはありません。例えば、どんな人がいたとしても、月を眺める時はその月が人によって満月もあれば、三日月もあるというように変化することがないのと同じです。


「弥陀をたのむ」ことは、私を生死から離れさせ浄土に生まれさせ、仏にするという阿弥陀仏をたのむわけですから、「生死を離れる」ことになります。


私が分かるとか分からないということはあまり問題ではありません。本願に疑心があるかないかが問題です。疑心といっても、本願にあれこれ自分の意見を入れるか入れないかということですから、本願に誓われた通りで疑い無いなら、生死を離れることも疑いないということになります。