安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「21 三信十念の適例(その2)」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそのまま掲載しています。

21 三信十念の適例(その2)

 長い話に用事はないが、この話しについて皆様から、篤と味わって頂きたい事がある。先ず第一に善知識なくは、いたづらごとなりということである。私が行くに行かれず、泊まるに泊まられず、困り果てておるところへ。
「今晩はぁ」
と呼ばはった男の声を、たとい聞いても。もしその時に、茶屋の女房がいてくれず。
「ソレ今の御方は間瀬へ行く人」
と知らせてくれまいものならば、私は声を聞いても、聞いたばかりで所詮なく、とても行く事は出来まいに。女房は実に善知識。
「今晩はぁ」と呼んだ男のいわれ、間瀬へ行く人じゃということを。私に聞かせてくれたればこそ、越されぬ峠が越されたのじゃ。


 今日御座の我々も、南無阿弥陀仏と呼びかけられたその声は。お互いお互いに聞いてはいても、この南無阿弥陀仏の喚び声が。我等を浄土へ往生させて下さるる、即是其行であるぞよと、取り次いで下さるる御方がなかったら。聞いたばかりで所詮なく、とても往生は出来まいに。こんな僅かなお六字が、我等の極楽に往生すべきいわれぞと。知らせて下さるる善知識があったればこそ。越されぬ死出の山を越え、行かれぬ浄土へ行かれるのじゃ。


 そこでいよいよ私は、二里の峠の夜の道、一歩一歩にその男一人を、真から底からたのみ力にしたうえに。時々はお陰様でこの山を越さして貰いますと、喜びの声も出しました。このたのみにしたのが三信で、喜びの声が十念である。


 サァ皆様、このたのむ思いと、喜ぶ声がなかったら。その男は私を連れて行って、くれなかったであろうか。ここでよくよく考えて見て下さい。連れて行く男の方では、私のたのむ思いと、喜ぶ声は、更に必要はないのでしょう。男に必要ないからというて、私にたのまにずおれ、喜ぶ声は出すなといわれたら。私は全くたのみにせずにおられたでしょうか。


 連れて行く男に対してすまんから、たのまにゃならんと、義理で私はたのんだのでもなく。越すに越されん夜の山、越さして貰うも、この男があったればこそなどと。そんな理屈を並べ立て、思案工夫を巡らして、たのむ思いを起してから、たのんだたのみでありませぬ。たのむたのまん世話なしに、ただたのまれた有りだけが、胸に溢れて喜びの声とあらわれたのじゃ。


 かかる任運無作用にたのまれたは、私の心から動き出したたのみでない。連れ行く人の働きが、私の心に映った影が、たのみ力とあらわれたのじゃ。その証拠には、若しも途中でその男が、突然消え失せてしまったその時は。私のたのむ思いも、喜ぶ声も、断滅して。恐怖の思いと、泣き叫ぶ声と、変わってくるのは請け合いのことである。


 事実話しに実がいりすぎて、大事の話の要点を聞き漏らされては所詮がない。
 今本願の三信十念、たのむと称うるということは。衆生がたのまにゃ助ける弥陀の都合が悪い、女人が称えにゃ救う手元が甚だ困る、というのじゃない。弥陀は素より只の只、たのまん先から、助けにゃおかんと願を建て。称えん先から、救わにゃおかんと行を修し。名体不二と成就して、是で助ける六字ぞと。茶屋の女房は善知識、教えて下さるる十七願の喚び声を、聞き得る手元は十八願。僅かの山の夜の道、知らぬ男に逢ってさえ、連れて行かるる身になれば。たのむまいぞといわれても、たのみにせずにおれんのに。無明長夜の死出の山、知らぬ男ではありませぬ。久遠劫よりこの世まで、あわれみまします親様が。南無阿弥陀仏と身をやつし、態と迎えて下された。


 六字の親に逢った身の、至心信楽欲生と、たのみにするは当たり前。続いて行かねば、捨てて行くよな男でない。抱いて抱えてはなさずに、護りどおしの御相が。南無阿弥陀仏と知れてみりゃ、乃至十念折々に、称えらるるも無理はない。称うる行も他力なり、たのむ思いも他力なり。他力づくめの信行は、共に六字の御助けの、働く影であってみりゃ。弥陀が助けるためでもなし、衆生が助かるためでもない。弥陀が助けて下された、かたちがたのむと顕れた、衆生が助けて貰うたる、余りが十念と溢れ出た。三信十念世話いらず、具足するのが第十八願の正意である。