安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「24 三信十念の解決」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

24 三信十念の解決

 前席に於いて、三信十念の根源について、詳しく御話しを致しましたが。是で第十八願の、たのめよ称えよと、呼びかけさせられた思し召しが、皆様にご了解が出来たことであろうと思われます。阿弥陀如来の御手元では、大体において、喚び声で助けてやろうというのが、超世不共の御本願である。
 
 
 しかしその喚び声を建てるに付いては、何という喚び声にしてやったら、衆生の根機に相応するであろうと。我等が手元の寸法を、とって御覧なされたところ、どうも成られる奴ではないが。心ではたのみにすることと、口で称うることだけは。止めて止まらぬ、我らの寸法なるがゆえに。この器の寸法通りに、喚び声の形を定め、たのめよ称えよと呼びかけて。その喚び声で助かるよう、たのめるよう、称えられるよう。御成就下されたが南無阿弥陀仏の名号である。
 
 
 よって六字の名号には、たのめば助かる謂れもあり、称うれば助かる仕掛けもある。そのたのんで助かり、称えて助かる、いわれのある御六字が、我等の心へ届いたとき。世話なしにたのまれ、心配なしに称えられ、工面なしに助かって仕舞うのである。是を他力廻向の心行と申すのであります。


 そこで私は、先前の御座に於いて、この三信十念に付いて七箇条の不審を挙げておきました。その不審の数々は、何から起こって来たかというに。本願の三信十念と、若不生者を別物にして。たのむと称うるは衆生の仕事、助けるだけは弥陀の仕事と心得て。たのめば助かる、たのまねば助からぬように、勘違いをしておるために、起きた不審の大体にして。これが全く、一流安心の体を失うて、安心の相ばかりを捉えようにかかり。第十八願そのままが、六字の相であるということを。忘れて仕まっておるのじゃから、解決の出来る道はない。
 
 
 たとえ解決して見ても、道理理屈の取り沙汰か、意業自力に止まって。真実に他力回向の味わい得らるる訳はない。そこでいよいよ三信も十念も御助けも、第十八願の有りだけが、六字のいわれであったかと。聞き開かれてしまった上は、幾多の不審も、一時に解決が出来るから。ここで暫く七箇条の不審に付いて、順次に一応の解決をつけて見て。その上に御話しを進めて参ることにしましょう。


 先ず第一の不審というは。三信十念たのむ称うるということがたとえ他力廻向で御与えものであるにせよ、衆生の手元に、実際二つ揃わねば御助けは出来ぬのであろうか。


 答えて曰く、衆生の手元にたのむと称うるとが、実際に二つ揃わねばなりません。イヤ揃えずにおけよといわれても、必ず揃うて来るのが、他力廻向の実義でありますから。いかにもたのまれて称えられるのでなければ頂いたとは申されません。
 
 
 しかしここに飽くまで注意して、聞いておいて頂かねばならぬのは。そのたのむと称うるが揃わねば、弥陀が助けることは出来ぬぞというのではない。弥陀はもとより助けるが専門である。その助ける専門の妙法が、南無阿弥陀仏の六字にして。しかもその六字に、衆生のたのめる謂れと、称えらるる仕掛けがある上は。六字一つの御助けが、此の機に届いたとき。必ず心ではたのみとなり、必ず口では称えらるるは当たり前である。然るに、そのたのむ信相と称うる行相のないものなら。確かに六字を頂いてない、証拠であるから。三信十念のないものは、必ず往生の叶わぬことと決着して貰いましょう。


 ここに一言添えておきたいことのあるは。三信十念のないものは、必ず往生が叶わぬといえば。ソリャ見たかたのむ信相のないものは、助けて貰うことは出来まいがや、と仰る御方もありましょうが。是が所謂、信心と御助けを別物にして御座る御方の痼疾病と申すもので。信心や正定聚や摂取や御助けは、現益にして、その体南無阿弥陀仏であります。往生や滅度は、当益にして、信心六字の当来の妙果である。
 
 
 是によって、この御助けを頂いた現益の信心がなければ、当来の往生は叶わぬということで。信心と御助けを、交易するのではありません。依って蓮如上人は、この信心を獲得せずば、極楽には往生せず、と仰せられてあるけれど、助けて貰われぬぞとは仰せられてない。この事は後日詳しく御話し申すこととして。今は三信十念不審の箇条に付いて逐一解決をしてしまいましょう。