安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「13 易の徳と勝の徳」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

13 易の徳と勝の徳

 そこでたのむものを助ける、称うるものを迎えとると仰せられた、第十八願の御正意は。衆生がたのめば弥陀が助ける、衆生が称えれば弥陀が迎えとる。若し衆生がたのみも称えもせぬならば、弥陀は堕ちても知らんぞというような思し召しではない。疑蓋無雑の親様にそのような不実のあるべき訳のないことは、再三御話しを尽くしました。
 

 然るにたのむと称うるということを。弥陀が衆生を助けるについての条件のように心得て。これを調えてかからねば、如来様から助けて貰われぬように、勘違いをしておるものゆえに。たのむと称うるということが気にかかり種々の不審が起こり。遂には、異解異安心の病気となって、しまうのじゃ。これに依って、たのまにゃならん、称えにゃすまんの、仕事を暫くやめにして。たのめよ称えよと、呼んで下された、本願の思し召しを、委細に聞き取って頂きたい。


 それについて法然上人は選択集本願章の中に、詳しい問答が設けてある。先ず御問いの御言葉が。

なんがゆゑぞ、第十八の願に、一切の諸行を選捨して、ただひとへに念仏一行を選取して往生の本願となしたまふや。

http://goo.gl/Ol89g1

というてある。
 これを至極平易にいうて見ると。阿弥陀如来は何と本願をお立てなされても、よさそうなのもじゃに。たのむものと、称うるものを、助けるぞと仰せられたは。全体如何なる思し召しであるかという御尋ねである。
 その次に。

答へていはく、聖意*1測りがたし。

とあって、阿弥陀如来が五劫の間。選択思惟して御建てなされた本願の御聖意を。愚痴の法然などが、到底測り知ることの出来るものではないと、御卑下なされて、その次に。

しかりといへどもいま試みに二の義をもつてこれを解せば、一には勝劣の義、二には難易の義

と仰せられて。これより以下に詳しく御示しはあるけれど。文面が難くて、御話し申すも容易でないから。帰するところの味わいだけを御話しして、皆様から聞いて頂きましょう。

 そもそも阿弥陀如来が、たのむものを助ける、称うるものを迎えとると仰せられたは。衆生に難題御懸けなされたのでもなく、我等に注文なされた条件でもない。三世十方の諸仏菩薩に並びのない、易の徳と勝の徳のある、御手柄を御知らせ下された、御誓いである。


 易の徳というは、容易い徳、勝の徳というは、勝れた徳。何が容易いというても、たのむや称うる程、容易いことはありますまい。又何が勝れておるというても、十方衆生機類を選ばず、助けてくださるるほど、勝れたものはありますまい。ソコデ三信十念を以ては、勝の徳が顕れておるので。これをもう少し皆様に解り易くいうて見ると。もともと衆生を助けるということは。阿弥陀如来にかぎった話しではないので。一切諸仏総じての仕事である。仏と名のつくものに、衆生を助ける御勝敗をなさらぬ御方は一仏もない。

 
 しかし外の諸仏の助けようと、阿弥陀如来の助けようとう天地雲泥の違いが有る。その一切諸仏に並びの無い、御助けのお手際を、知らせて下されたが、たのめ称えよの仰せである。諸仏菩薩の御助けには、薬にしたくても、こんな仰せは更にない。諸仏菩薩はどのような仰せであるかといえば。殊勝になれよ助けるぞ、智慧を磨けよ助けるぞ。座禅してこい助けるぞ、善根積んでこい助けるぞ、と斯様な呼び声ばかりである。


 これでは何程助けて貰いとうても。無善造悪の我等は、とても助けて頂くことは出来ぬ。然るに有り難や、阿弥陀如来御一仏。殊勝になれとはいわんぞよ、智慧を出せともいえはせぬ。座禅せよではらちあかず。らちの明かないそのままで、何にもいらぬ証拠には、たのむばかりで助けるぞ。口へ出してもその通り、御経読んで来いとはいわん。御領解陳べて来いともいわぬ、世話の要らない証拠には、称うるばかりで助けるぞと。阿弥陀如来の御助けの、三世十方に並びの無い、勝れてあるのと、容易い御徳を知らせて下されたが、三信十念の御誓いである。


 サァ皆様、これで本願の思し召しが解りましたか。心配さしょとて、たのめと喚んだのではない。世話のいらない御助けを、知らせてやりたいばっかりで、たのむものをとよんだのじゃ。難儀さしょとて、称うるものをというたじゃない。楽な至極のありたけを、聞かせてやりたい御慈悲より、称うるばかりと喚んだのじゃ。それを知らずに御互いは、楽な仰せを難儀に受けて。愚痴の数々並べ立て、御助け一つを余所に見て、迷うたことの勿体なや。今は御慈悲に夜が明けて、世話の要らない御助けが。南無阿弥陀仏であったかと。聞こえた信の当体が、たのむばかりの御助け。たのむも六字御助けも六字の外に無いならば。六字の息が口へ出て、申す念仏そのままが、称うるばかりの御助け。御助け一つが貰われて、三信十念世話要らず。具足の出来たうえからは、後念の勤めこれ一つ、欠け目のないよう世話をして。目出度うこの世を過ごせよが、真俗二諦の教えである。

*1:仏のみこころ。