安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「20 三信十念の適例(その1)」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

20 三信十念の適例(その1)

 本願の三信十念、たのむものを助ける、称うるものを助けると呼んで下された仰せに付いて。古来より聞き誤りをして異安心の三幅対となり、その他種々と自力で難儀して、御座る御方が沢山あり。そこで越中福野の少女が、阿弥陀如来の遣る瀬無い御慈悲を聞いて。
「夫れほどまでの親様なら、我を一心にたのめなんかいうて下さらねばよけれども。」
と悲歎した。少女の痛切なる不審に添えて、私は三信十念不審の数々、七箇条を並べてこれまでお話しを続けました。その大要は、皆様もお呑み込みが出来ましたでしょう。


 全体たのむということや、称うるということは、更に値打ちのないものである。その値打ちのないものを以て、三世諸仏の手に余った我々を、助けるぞと仰せられたは。つまり只の只で与えて助ける親御心を知らせて下されたので。衆生の手元では何にも要らぬ、心に於いてはたのむばかりじゃぞ。口へ出しては称うるばかりじゃぞ、と仰せられたは、易の徳を知らせて下されたものである。その何にもならん、たのむや称うるばかりにて、助け損じて下さらんのが、勝の徳でありる。
 
 
 然るにその何にもならんたのむと称うるに値打ちをつけ大事の御助け下さるる尊い値打ちを棚に上げ。たのむ一念や称うる口元に、難儀してござる御方のために、私は帰するところは只の只と、思いきったところまで話を進め。たのむも負ける、称うるも負ける、自力も疑いもみな負ける、負からんものは御助け一つである。その負からん御助けが、南無阿弥陀仏であったかと、六字の御助けが届いたとき。負けて貰うた信相が、一時に具わり、たのんでまかせて称えらるるのじゃ。
 
 
 然らば何故に最初から只助けるぞと、喚んで下さらぬかといえば、弥陀はもとより只なれど、衆生が只にはしておけん。必ず心にはたのみにし、口には称うる声を出す。弥陀の都合はどうでも良いが、衆生の都合のよいように、たのめよ。称えよと仰せられたのじゃ。というところまで、くわしくこれまでに御話しを尽くした次第である。


 世間の同行衆の中にも、たのめの御意は私一人のためであるなどと、口癖にいうて御座る御方もあるが。その私一人のためという意味が、更に徹底してない御方もあるように見受けらるるから。此の上に、もう少し三信十念は、助ける弥陀のためでない、実際我等衆生のためであるということを事実について御話しを致してみましょうから、皆様も暫く耳を貸して下さい。


 私が16歳になった正月の元日に、祝いの餅を食うておるところへ、母の里の間瀬村願龍寺から電報が来た。開いて見たれば祖父様が危篤だから、母に来いというのである。そこで母にすれば実父のことであるこら、何事やめても行かねばならぬ訳なれど。何分祖父様は八十六歳の高齢で、先前より老病にかかり。是まで危篤の電報に接して、飛んで行ったは、死なれずに還って来たは、ということが一二度も会ったので。夫れも二里や三里のところでない、十二里の道で汽車も汽船も更にない。あるものとては、山が二つと河が三本、その上に雪があるので人力車もきかず。しかし何があろうが無かろうが、危篤の電報に接しては、行かねばならぬは当たり前じゃが。
 
 
 ここに越後の寺院のならいとして、正月の元日二日三日は、年中にかけて大事の日柄で。檀中信徒が御米を持って年頭に来る。僅か三日間で、半期分の飯米を貰うという。農家にすれば、田植えと稲刈りと米つきが、一時に来たような忙しいときに。坊守が居らんとあっては、来客の待遇上甚だ困る。それも坊守一人ならばよけれども子持ち時代の母のことゆえ。母が行くとすれば、送り手も要れば、子守りも要る。夫れ是自分勝手の話しではあるけれども、しかも快方なられるかもしれぬのに、せわしい中を取り急いで、ゆくも難儀のこと。さりとて捨ててもおかれぬというので、つまらん役目の廻って来たのだこの私で。
 
 
 一種の斥候兵として、出掛けたのが午前十一時。とても今日中には着かれまいから、日が暮れたら何処になど泊まり。明日は成るべく早く到着して、若しも全く重態であったら、すぐに電報をよこせ。その時は夜の夜中でも、母は飛んで行くからという、使命を帯びた十六歳の小僧。半里ばかりで佛路越という峠にかかり。名こそ佛路とはいうものの、越えて見れば余り難儀で真の地獄路。なぜにそのような難儀の峠に、佛路などという名がついたかといえば。祖師聖人が、七不思議の証跡を残しなされた当時。この山を御越えなされたというので、俗に佛路越というておる。こんな難儀の佛路も祖師のご苦労の跡と思えば、何の苦もなく突破して。雪道泥道五里三里、八里進んで日は全く暮れてしまい。そこで泊まろうかと思うたが、痩せ我慢なるこの小僧、提灯求めて出来る限りの前進と。疲れた足を励ませて、夫れより二里も歩いたので、いよいよ弥彦山という山の登り口まで着きました。
 
 
 サァ皆様。つまらん話をするようじゃが。たのむと称うるということは、助ける弥陀のためではない。助けて頂く衆生のためである、ということを呑み込んで貰いたいので。御話し申すのでありますから、筋道を失わぬように、暫く辛抱して聞いて下さい。
 
 ソコデこの弥彦山で、二里ばかりの石瀬峠という、険阻の坂を越えてしまえば、目的地の間瀬へ達するのであるが。何をいうにも夜の九時過ぎで、天狗の棲むよな此の山を一人で越える勇気も出ず。麓の茶屋を呼び起こし、暫く休んで人夫を頼んで見たけれど、元日のことで誰も送ってくれる人はありそうもない。
 
 
 茶屋の女房は親切に。
「今夜は泊めてあげるから、明朝早く御出でなされ。」
というてくれる。私も泊まりたいは山々でも、病人かかえた用事である。私の遅かったために、母が臨終に逢われなんだとあっては、終生の残念である。どうせここまで来たのじゃもの、何とかして行きたいものじゃが。一人ではとても峠は越えられず、泊まるとしょうか、行きたいなぁ、と思案をしておる軒先を。
「今晩はァ」
と呼ばって通る男の声、茶屋の女房は
「お帰り!」
と返事しながら
「ソレ彼方!今の御方は、間瀬へ行く人、御出でになるなら連れ立ちなされ」
と聞かされたる私は、地獄に仏と喜んで。茶屋を飛び出し男を呼ばわり、どうぞ御連れに願います。とさびしい峠を無事に越え、願龍寺に着いたは夜の11時。早速病人の重態を見て、電報を送り、母は翌日出掛けて来る、祖父様は正月の三日に死去せられたことであった。