安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「28 真実信心必具名号」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

28 真実信心必具名号

 前席より第十八願の三信十念に付いて、不審の各条を逐一御話しして参りましたが。ここに最後の不審というは。
「思いきって三信十念をとってしまい、たのむも称うるもやめてしまったら若不生者の御誓いは、つぶれてしまう物であろうか」
という尋ねである。
 
 
 この不審については、既に是までの御話しで、解決は尽きておることなれば。今更詳しい説明の必要も、ないようではあるが。しかし是は、真宗一般同行の痼疾病とも申すべき不審にして。言葉を言い替えて見ると。たのまんかったら助かるまいか、称えずにいては参られまいか。三信十念なしにして、若不生者の御助けのみにして、下さるルことは出来まいか、という意味になるので。つまり他力廻向の真味を知らず、たのむ一念に屈託し、称うる口に難儀しておる人々が。いうと、いわぬは別物として、何時も胸の中に、晴れかねてある曇りが、このところである。


 全体我等衆生が、たのもうがたのむまいが、称えようが称えまいが、若不生者の御助けが、つぶれるの動くのという訳のものではない。その故は誰一人たのみもせず、称えもせなんだ十劫の昔に。本願が成就したのが、何よりの証拠である。しかしながら、その若不生者の御助けが、南無阿弥陀仏と成就したうえは。南無阿弥陀仏には。必ず衆生のたのめる謂れと、称えらるる謂れが具足してあるから。この六字の御助けが、如来様の御手元にあるか。ただしは、善知識の御言葉の上にある間は、何の仔細はなけれども。もしこの南無阿弥陀仏の御助けが、第十八願の十方衆生、我等が機の上に届いたときは。必ず三信十念と顕わるることは、再三再四御話しを申した次第である。
 
 
 依って我等が心のうちに、南無阿弥陀仏があるうえは。たのむまいぞと言われても、六字がたのめる法じゃものたのむの信はぬけられず。称えずにおれといわれても、六字が称えらるる品じゃもの、称うる行は必ずでる。この必具の信行は、弥陀が要るので誓うたものでもなく。衆生が要らんでやめてもおけず。御助けの当体に具足してある、信行なるがゆえに。念仏往生の願文には、三信十念と明らかに誓わせられ。我等衆生が頂いた手元でも、三信十念自然に揃い。信と行とは必ず具わることである。若しもたのむと称うるが、我等の手元に揃わなんだら。まさか弥陀は助けてやらぬぞとは、仰せられねども。御助けの届いていない、ことだけは請け合いである故に。必得往生の望みは絶えた次第である。


 ここを祖師聖人は末灯鈔の中に。
「弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。」
と仰せられてある、この名号を称えんものというは。前席にもいうた如く、無信仮名のことではない。信じて称うることを、影略互顕して仰せられたのじゃということは、必ず忘れて下さるな。そうして見れば、誓わせたまいたる本願の上でも、三信十念。深く信じて称うる機受も三信十念である。然るに、我等が頂いた手元に於いてもしも信と行とが揃わなんだら。必ず贋物に相違ないぞと、きつく御吟味下されたのが、次の御言葉で。
「信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。」
とあります。


 ここに詮なく候ふと仰せられたは。信心の所詮がないということであるから、矢張り往生ができないというわけになる。たとい信心がありとしても、口に称うる行のかけてあるようなものならば、如実の信とは申されず。又一向に名号を称うる行があっても。信心浅くというて、定散自力の浅い信心であったら。是も不如実の行である。
「されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。」
と御決着下されて。行を離れたる信もなく、信を離れたる行もなく。信と行とは如来の御誓い、六字の働きなれば、離すに離されぬものなるに。頂いた我等の手元に於いて。信があっても行か欠けたの、行かあっても信が浅いのということでは。何れも往生の出来ぬかたちであるから。必ず念仏往生と深く信じて、而も名号を称うる、信行具足のものであかったら。報土の往生は、叶わぬぞと、明瞭に御示し下されたのが、末灯鈔の思し召しであります。
 
 
 これを皆様に、もう少し御解りやすいように、簡単の御話しをしてみると。手品師が手のひらで。火を焚いて見せる。いかにも火が、体について居るようであるけれども。口で熱い熱いと叫ばんのは、火傷しない証拠である。然らば口で熱い熱いと叫べば、火傷するかというにそうでもない。八百屋お七の、火あぶりの芝居を御覧なさい。お七は熱い熱いと七転八倒して、叫んでおるけれど。事実体に火がついていないのじゃから、役者のお七は、火傷する気遣いはありません。是が、手品も芝居も、如実の仕事でないゆえに。口と心が揃わんのじゃ。
 
 
 如実の仕事と来ては、見事なもので。皆様試して御覧なさい。そこらあたりに居眠りして居る。みにくい婆に。線香の火でもチョイとつけるけ。つけるが早いかアチャと叫ぶ、叫ぶ声には熱いの思いは具わってあま。口から思いが出たのではない。思いが口へ出たのじゃから。信が先で行が後。後と崎戸はあるけれど、信行揃った証拠には、確かに体は焼けてある。これを末灯鈔の御言葉で言い替えて見ると。
「信心の火はついてありとも、熱い熱いの名号を称へざらんは詮なく候ふ。又一向に熱い熱いと称うというけも、信心の火がついてなかったら、往生の火傷はしがたく候ふ。されば念仏往生の熱い火が確かに知れて、而も熱い熱いの名号を称えらるるものならば。迷いの体は焼けてしまって、疑い無く報土の往生にてあるべく候ふなり」
という意味であります。


 熱いと思わせる信の働きも、熱いと言わせる行の仕掛けも。共に名号六字の御助けの、あつい御慈悲の火の中に、こもってあることなれば。その火が届けば信と行とは不離にして。熱いと思うたばかりにて、言わずにおらるる訳もなく。言うたばかりで思わずにおらるる義理もない。それをもし、言うたばかりで思わずにおり、思うたばかりで言わずにおらるるものならば。真実御助けの火の、届いてない証拠であるから。一つあっても一つ欠ければ、あった一つも虚仮である。虚仮でなかった信ならば、行は必ず添うて出る。是を祖師聖人は信の巻に。「真実の信心はかならず名号を具す」と仰せられた次第であります。