安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「25 一念業成と十念の誓意」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

25 一念業成と十念の誓意

 次に第二の不審というは。若し三信十念二つ揃わねば、往生が出来ぬものならば。たのむ一念のとき往生一定ということは、嘘なのであろうか。


 答えて曰く、たのむ一念というは、信楽開発の時剋の極促のことにして、往生の定まる時剋を御示し下されたものである。御助けの六字が届いた上
は、即座にたのまれて称えらるるに違いはないが。


 しかしそのたのむと称うるということは、必ず時間に前後があって。たのむ思いの信心が先で、称うる口の起行は後である。火に触れば、必ず熱いの思いと、熱いの口は、共に具わるものではあるが。熱いと口に言うてから、熱い思いになったのではない。熱いと思うたその後で、熱いと口に言うたのじゃ。この口と心の時間の隔ては、余り手早やのものであるから。とても我々凡夫の思慮分別では、量り知ることは出来ねども、前後のあるは当然のことである。
 
 
 そこで前後のあるものとして見ると。火傷したときは、全く何時であったかというに。口で熱いと言うたその時は、早や火傷してしまった後の話にして。実際に火傷したのは、心に熱いと思うた一念の時である。しかし思うたで焼けたのでない、焼けたから熱かったので、この焼けると熱いの一念は、更に前後はない全く同時である。
 
 
 今往生の問題もその通り、口で称うる後念の時は待つに及ばぬ。心に御助けの火が触り、熱いとたのまれた一念同時。忽ち無明業障の罪科は焼けてしまい。即座に正定不退の身になるゆえに。たのむ一念のとき往生一丈と、御知らせ下されたものである。鎮西宗などでは、たのむ一念のときには往生も定まらず、称うる念仏でも往生は定まらず。往生の定まりは、臨終の御来迎まで、待たねばならぬことなるに。有り難や、浄土真宗は、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。この座でたのむ一念のとき、往生が定まるということは。全く名号六字の活きて働く御手柄を、知らせて下されたればこそと。御流れくみの御互いは、実に喜ばねばならぬことである。


 次に第三の不審が起こってくる。実際はたのむ一念のとき、往生が決まって仕舞うて、後念の称名はあってもなくても、往生に差し支えのないものならば。本願の乃至十念は、あってもなくてもよい贅物を、御誓い成られたものであろうか。


 答えて曰く、往生の決まるときが、信の一念であると言うもの乃至十念を贅物じゃの、要らぬものとは申されません。熱いと思う一念に、火傷してしもうた上は。熱い熱いと口にいうのは、余り贅沢のことじゃなどと。小理屈ひねるものは、世間に一人もありますまい。
 
 
 そもそも口で言うのも心で思うのも。要るので思うのでもなく、要らぬで言わずにおれるものでもない、既に触った火に、思わせる働きも、言わせる力もある上は。要るの要らぬの御話しは、沙汰の限りと言うものじゃ。要るの要らぬの世話なしに、必ず起こるが自然他力の真味である。今第十七願に御成就なされた、本願名号の火の中に。たのめる謂れと、称うる仕掛けのあるものな。その火の届いた、第十八願の御誓いに、たのむ三信ばかりにして。称うる十念の倹約をして、おかるる訳はない。殊に第十七願の上では、諸仏讃嘆の喚び声を、御誓いなされたばかりにして。その喚び声の大事の働きは、明瞭に誓ってない。
 
 
 ソコデ喚び声の六字が、十方衆生の我々に届いて働く御相が。第十八願の念仏往生の誓願であって見りゃ。その六字の働きたる、三信も十念も、若不生者も、残らず誓うて下さらで何とせう。然るにたのむ一念で助かってしまえば、称うる十念は要らぬなどと思うて御座る御方は。矢張りたのむ一念と御助けとは、何ぞ差し引きの交渉があるように、思う迷いの病菌が絶えぬのじゃ。若しもたのむ一念が、御助けの働きであると知れてみりゃ。乃至十念の御誓いも、御助けの働く相じゃもの。三信十念更に別物でないことは至極明瞭のことである。


 なおその上に十念の御誓いに付いて、大事の訳のあることを聞いて下さい。総て願と行とを具足せざれば、仏になられぬということは、諸仏一般の通則である。たとい他力づくめの御助けなればとて。願と行とを具足せずして、仏になられる道理はない。去りながら難儀の願行であったなら。我等衆生の起こさるるものでもなく、たもてる道理もないゆえに。


「願行は菩薩のところに励みて、感果を我等がところに成ず」。と難儀の願行は弥陀の手元に勤めあげ。六字一つに封じ込め、これを衆生に廻向して下されたればこそ。受け取る衆生はあら楽や、心ではたのむばかりの願となり、口では称うるばかりの行となる。願もたやすい、行もたやすい、世間出世間の因果の理に超異せる。願行を御誓い下されたのが、第十八願であって見りゃ。三信ばかりにして、十念がなかったら。願のみあって、行の欠けることになるゆえに。三信十念並べて御誓い下されて。他力の願行具足して、仏にならるる道に不足ないことを、御知らせ下されたが、第十八願の三信十念の御約束である。