安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「22 三信十念の根源(その1)」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

22 三信十念の根源(その1)

 幾年の久しきにわたった欧州の大戦乱も、昨年末を以て漸く終わりを告げました。ここに新しき春を迎えるとともに、平和の光を見らるるようになりましたは、実に何よりのことでありますが、しかし鉄砲玉の戦争はすんだものの。是からは各国利害の関係から、金銭玉の戦争は。いよいよ激しくなってきますから、中々油断をしてはおれません。従って生活難の戦争が始まる、病魔の戦争、災害の戦争は、何時まで経っても止む気遣いはなし。殊に無常の風の戦争と来ては、独帝の如く、オランダと逃げ出して見ても仕方はない。一と勝負で命を取られてしまわねばならぬ。前途さびしい御互いの身が、一日たりとも無事に永らえさして貰うた所詮として。最後の必勝を期するには、確かに信心一つを決定するに限ることでありますから。何卒皆様も、真に永久平和の光の見えるまで、聴聞にこころを染めて頂きたいことであります。


 さて是まで繰り返し巻き返し、第十八願の三信十念、たのめよ称えよと仰せられた思し召しに付いて、御話しを続けましたが。皆様も、充分に御解りになりましたか。弥陀が助ける手元において、衆生がたのまんそのうちは。甚だ都合が悪いから、我を一心にたのめよと仰せられたのでもなく。衆生が称えてくれぬなら、弥陀が助ける手は出せぬという御心で。称うるものを迎えとると、呼びかけさせられたのでもない。
 
 
 衆生の三信十念と、差し引きつけて助けるという、勘定づくの本願を、建てた覚えは弥陀にない。衆生は逃げても弥陀は逃がさぬ、女人が厭でも弥陀は与える。我れ無量劫に於いて大施主となり、普くもろもろの貧窮を濟う手元に懸け引きせぬ。我れ仏道を成ったうえからは、名声十方に超えんと、名号六字の喚び声を、十方衆生に聞かせて助ける。聞きたかろうと、かるまいと、究竟じて聞こゆるところなくば、誓うて正覚を成らじ。と聞かせにゃおかんの本願が、成就したのが名号六字の御助け。
 
 
 その名号六字の御助けが、十方衆生の我等が胸に、届いたかたちが三信となり。口へ顕れた相が十念である、として見れば。弥陀が助けるについて、たのんで来いというのでもなく。衆生が助かるについて、称えて行くというのでもない。助かったそのままが、たのまれた信相なるがゆえに、たのむ一念のところ肝要という。その助かった余りが、口へ溢れる十念なるがゆえに。これえ報謝の称名と申すのじゃ。
 
 
 しかるにここの味わいを知らずして、たのめの仰せに屈託し。只ではとても助かるものか、仏になるにはたのむ一念が、なければならぬ。と如何にもたのむということを、浄土参りの仕事か、持ち物のように心得て、定散自力の此の機をなぶり。サァたのめたか、たのめぬか、是であれでと難儀して。生涯支那や露国の国民のように、内輪戦争にかかりはて。終いに滅亡して取り返しのつかぬことに、なりゆく我が身を知らずにござる御方もあり。
 
 
 依って私は前席に於いて、三信十念の実例について、御話しを申しました。越すに越されぬ夜の山路を、連れ行く人に逢ったとき、心では真から底からたのみとなり、口では有り難やと礼をいう。たのみにしたも礼いうたも、たのまにゃすまんでたのんだのでもなく、言わにゃならんで言うたじゃない。たのむたのまん世話なしに、たのまれてしもうたは。此方から出たたのみでない、連れ行く人の働きが、私の心へ写ったのじゃ。
 
 
 今も丁度その如く、阿弥陀如来の御助けが、南無阿弥陀仏であったかと。此の機に届いた一念に、その御助けに逢うたかたちが、三信十念と顕るる。その三信十念の有りだけが、御助け一つの働きであるゆえに、祖師聖人は、
 「若不生者のちかひゆへ、信楽まことにときいたり」
と仰せられて。若不生者は御助けである。その御助けから信心もあらわれ、一念慶喜もおこるのである。


 然るにその大事のお助けを、遠い浄土に飾ったおいて、ここでたのんでおるゆえに。たのんで見ても心配だのみ、自力だのみとなり、たのむは要らんといわれると、急に当てどがなくなって、無念無想でもよいのかと驚き出す。それが、御助けの我が物に、なっておらん証拠である。今は遠い浄土の御助けが、近い六字にあったかと。若不生者のお助けが、我が機に届いた一念に、たのむまいぞといわれても、たのまれ、称えまいぞと言われても、乃至十念と顕るる。是が即ち、他力廻向の信相というものである。


 そうして見ると、ここで又もとの不審が繰り返されてくる。成るほどお助けが届けば、たのむなといわれてもたのまれ、称うるなといわれても、称えらるるに違いない。ここの道理が極まりて見ると、阿弥陀如来は矢張り、「只助けるぞ」とお助け一点張りのお喚び声でよい筈じゃ。それが届けば、只でたのまれ、只で称えらるる。夜の山路の男の方では、連れてゆくだけで夫れでよい。「たのめよ連れてゆく、称えよ連れてゆく。」そんなお世話は要らぬこと。連れて行かるる身になれば、自然にたのまれ、自然に礼もいわるるもの。阿弥陀如来も、たのめ助けるなどと、仰せられずとも、只助けて下さるれば衆生の方では、たのんで称えて安堵して、信心も決定もみな出来る、ここまで深く味わえば味わうほど、たのめよ称えよのお言葉は、全く不要のように思わるる。なぜ只助けるという、喚び声だけにしておけんのか、たのめよ称えよの仰せ、いよいよ不審が強まってきた。
 
 
 サァ皆様、ここまで不審のメートルが上がって来ては。どうしても、三信十念の根源から、お話しをせねば成りません。解らん間の不審なら、容易くお話しも出来ますが。充分に他力の様子を呑み込めたうえの不審ときては。いよいよ難儀の話でありる。是が解らんとして見ると、今迄の話は、丸で無駄事となってしもうて。矢張りたのまなければ助からんことになってくる。サァ皆様も、力をいれて聞いて下さい。私も信仰の有りだけを尽くして、言うて見ましょう。