安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「14 亦是発願回向之義」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

14 亦是発願回向之義

 座に座を重ねて御話し申す、本願の三信十念に付いて。たのむものを助けるが、三信の御勧め。称うるものを迎えとるが十念の御勅命。この簡短なる御喚び声は誰も知らぬものはなし、聞かんものもなけれども。その喚んで下された思し召しとその喚び声の値打ちとを、聞き明かして御座らぬもの故に。たのむ一念に心配し、称うるところに苦心して。このたのむと称うるを、我等凡夫の大仕事のように心得て。他力を自力に混ぜ返し、遂に無量永劫の一大事を、仕損ずるものが、何程あるか知れません。
 
 
 依って私は前席に於いて、このたのむと称うるということは、我等の仕事のようなものでは決してない。たとえ仕事として見ても。たのむや称うるということに、一文ぶりの値打ちものない。その一文ぶりの値打ちもないものを持ち出して。たのむばかりで助けるぞと仰せられ、称うるばかりで救うぞと、誓わせられては。弥陀の御助けの諸仏菩薩に、並びのない易の徳を顕して下されたので。こんな容易いたのむ称うるばかりにて、極悪最下の我々が、助かるというが極善最上の勝の徳。サテモ容易く御助け下さるる、念仏往生の不思議の誓願を、知らせるための三信十念であるということを。法然上人の釈意に依って、詳しく御話しを申しました。
 
 
 これを善導大師の六字釈に照らして見ると、いよいよ明瞭になって来る。先ず南無というは帰命にして、亦是れ発願回向の義である。阿弥陀仏というは即ち是れ其の行なりと仰せられて。
 
 即是其行というは、選択本願の御助けのこと。発願回向というは、与えてやろうの思し召し。帰命とはたのめよの勅命。そこでたのめよと仰せられた、南無帰命の勅命のところに、発願回向の御与えのこころがある。何を与えて下さるる。与うる品は、即是其行の御助け、南無阿弥陀仏の六字であるぞという、善導大師の御釈である。
 
 
 サァ皆様、何故に南無とたのめよと仰せられたその中に、発願回向の御与えの意味があるのでしょう。この辺のところを、よくよる味わって見ると。いよいよたのむということは我等凡夫の仕事ではない。全く御助け一つを頂かせるに付いて、世話や心配のいらない。易の徳を知らせて下された勅命であったということが明瞭にわかります。


 ここに今一つの宝玉がある。その価格実に百万円という、尊い珠である。その珠を今日皆様に御譲り申すについて。百万円のものを、百万円に御譲りしては、皆様方に何の儲けがありませんから。ここで半額におまけして、五十万円で差し上げるということであったら如何です。買いさえすれば、五十万円の利益はあるとして見ても。それと同額の元手がいるということでは、とても容易くお客になれますまい。
 
 そこで今日は大安売りにして、百万円の宝玉を、僅か一万円にしてやると、いわれたらどうです。ここに忽ち起こってくるのが、疑いでしょう。百万円のものを、一万円にしてやるとは、定めて詐欺か贋物に違いないと思うでしょう。
 
 しかし、その御疑念は、御無用御無用この珠は西洋各国の博士や学者が、残らず保険をつけてあるから。品に間違いは、決してありませんぞと、聞かせてもらえば。実際高価な宝に違いない。その宝を、安く買えるは結構なれども。かりそめにも一万円の大金じゃもの、その金の融通の出来ぬ人には受け取る道がありますまい。
 
 然らばここで千円にしてやる百円にまけるというか。何といわれても同じことで。間違いのない品ならば、欲しいは実に山々でも、千円百円の元手がなければ、我が物にすることが出来ない。然らばいよいよ思いきり、十円、いや一円にしてやるとなってきた。
 
 サァ一円ならば謀られても知れたこと。我も我もと買いましょうが。その一円の持ち合わせのない、お婆さんはどうなります。現在ここで買いさえすれば、九十九万九千九百九九円の、大儲けの出来る話に逢いながら。一円の元手のないために、空しく我が物にすることが出来ぬとは、いかにも残念のことである。
 
 よって話を極端のところまで進めて行って。十銭にする一銭にする、一厘にすると、切り詰めてみても。矢張り御客になるには、一厘の元手がなければ相成らぬ。
 そこで百尺竿頭一歩を進め、たのむばかりで百万円の宝をやるぞといわれたら、どういう意味になるでしょう。銭もいらぬ金もいらぬ、只の只でこの珠を与えるぞ、ということになるまいか。十銭出せ、一銭出せ、というまでは、只の只の御与えではない。多少にかかわらず、代金取っての商いである。たのむばからでといわれて見れば、更に商いではない、難題でない、条件でない。全く只の御与えであるということはどなたもよくお解りになることでしょう。


 今阿弥陀如来のお助けは、百万や千円の宝でない。無上甚深の功徳利益の広大なること、更にそのきわまりもない御助け。品に偽りのないことは、十方諸仏の保険つき。それほど尊い御助けを。頂く衆生の手元には。一善積んで来いとはいわん、一行出して受け取れとはいわん。
 
 この世のことなら、五銭や十銭の小遣いに、不足する身でなけれども。未来にとっては、曽無一善の貧乏者、一厘なしのこの私へ。一厘出せというたなら、商い話の駄目話。弥陀は商いするのでな亦是発願回向之義、何にも取らん証拠には。たのむばかりで助けるぞと仰せられたのじゃ。
 
 この一言でこそ、いよいよ只の御与え、只の御助けという意味が、明瞭に知れるのじゃから。ここを善導大師は、南無とたのめの仰せの中に、亦是れ発願回向の義が有るぞよと御示し下され。法然上人は万行円備の勝れた尊い御助けを、頂く此方に世話のいらない。易の徳を知らせて下されたが、たのめ称えよの御誓いであるぞと御決着下された次第である。