安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「34 罪の消えた信相が欲しい」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

34 罪の消えた信相が欲しい

 厳しい暑さの中も厭わずに、ようこそお集まり下された。斯かる数多の人々が、お集まりになって御座る場所では。ひときわ苦しい感じも致しますが。汗を出しても、油を流しても、聞きましょうぞ、聞きましょうぞ。三祇百大劫の修行の代わりじゃもの。無間焦熱の苦抜けの出来る話じゃもの。暫くは団扇づかいの気儘をやめて。恭敬の心に執持して、心静かに聴聞に入精して頂きたいことであります。
 
 
 さてこれまでは、本願の三信十念に付いて、根から底まで御話しを尽くしました。たのめと呼んで下されたも、称えよと仰せられたのも。衆生から出して来いよ揃えて参れの難題でない。たのむまいぞといわれても、たのめるいわれの御助けじゃもの。称えまいぞというたとて、六字が称うる品じゃもの。たのむいわれと称うる仕掛けのこもった六字の御助けが、出来上がったが十七願。その十七願の御助けの御六字が、聞其名号の一念に我等衆生の心の上では、たのみとなり力となり。口へ出しては、乃至十念の称名となる。是が第十八願の信行であります。
 
 
 そこで、たのめるよう称えらるるよう、御成就下された御六字が。確かに頂かれた人ならば。たのまれたばかりで、称えずにおらるる訳もなく。称えたばかりで、たのまずにおらるる道理もない。若しも信じたばかりで、称えずにおらるるか。称えただけで、信ぜずにおれるものならば、何れも如実のものではない。必ず信行不離というて、揃わねばならぬのじゃ。
 
 
 しかし往生の定まり場をいえば称うる行の後念ではない。心に弥陀のたのまれた、六字の信ぜられた一念に、不退の位にいるのじゃから。当流ではたのむ一念のところ肝要と仰せられ。信心を以て本とするぞと、推し立てて下さるのじゃ。そうして見れば、どうしてもたのむ一念がなくては済まぬので。それと同時に、称うる行も欠けてはならぬ、ということは、詳しく前席に御話しを申しました。


 かくお話をして見ると、皆様の中では。ソリャ見たか、たのむ一念がなくては済むまいがや。どうやら松澤は、たのむも要らんの、只の只のおたすけじゃのと。妙な話をすると思うて居たが、漸く性根を出してきた。矢張りたのむ一念が肝要であろう。それも自力頼みでは、用に立つまい。疑いあっても相成るまい、雑行雑修も捨てねばなるまい。一心一向二心ろく縋る思いや、まかせた味わいがなかったら、信心決定とは申されまい。殊に助け給えと思う心一つにて、やすく仏になるべきなりとあるからは、六字の聞こえた腹一杯は。御助け候への思いがなくては、信相がたつまい。と又もやもとの平六で、たのむ一念に力を入れ。他力を忘れて自力に迷い。信体を離れて、信相を尋ねて御座るような、御方もありましょうが。
 
 
 ここは至って大事のところでありますから。幾度も幾度も繰り返し巻き返し、動きのつかぬどん底まで、聞き明かして下さいませ。
 

 よってこれまでは、弥陀如来の御心を土台として。三信十念の御話を続けて来ましたが。是よりは、御互いの心を丸剥きにして、御文の御化導に照らして見たい考えであります。凡そ世間の人々の中には、御安心の手鏡たる、八十通の御文を以て。手習いするときの、手本のように思うて。その文句通り、聊かも変わりのないように。自分の心の内へ、絵でも描いたか、模様でもつけたように。味が出るか、心地が出るか、何れにしても、御文通りの思いが起きねば。信心でないように考えて。
 
 
 ひしと縋る思いをなしてとあれば、縋る思いだなくてはすまん。露塵ほども疑がひなくとあれば、さてなさてなの思いがあっては大変じゃと。一々思いや心地に執着をして御座る御方が、何程もあるように思われます。
 
 
 そこで若し、我々の意識の上や、心のうちに。御文通りの、思いや心地がなければ。信心ではないと定めますか。そうすると、眠っているときや渡世にかかっておるときは、どうなります。確かに縋る思いがありますか、たのむ心地は決してありますまい。然らば眠っておるときは、心地が更にないから、信心が無いことにせねばならぬ。イヤそれは決してそうではない、一度頂いた信心なら、眠っていても失せぬとするか。必ずあるものと定めるか。そうすれば、思いや心地はあってもなくても、その思いや心地の外に。動かぬ信心が、何処かにあるものに違いないということは。理として頷かねばならぬことである。殊に同行衆が会合の時、信心沙汰をして御座る、話を聞いて見ると面白い。
「親心の届いた有りだけは、貴方なりやこそと振り向く思いじゃの。御慈悲一つに夜明けの出来た一念は、何時たりとも参りましょうの思いじゃの。六字の聞こえた腹一杯は、御助け候らへの思いじゃの。」
と思いと思いの出し合いをして御座るようじゃが。ほんとうにその様の思いが、起きておるのであろうか、甚だ疑わしいことである。


 多分はこの思い彼の思いと、いうておるその間だけでも。心のうちを顕微鏡で調べたら、自慢や我慢に満たされて。こういうたら、人が同心してくれるであろうか、若しや反対する人はなかろうか、などという思いばっかりで。分厘も、参りましょうの、助けたまえの、という思いのないことは請け合いである。
「人問わば海を山とも答うべし、心が問わば何と答えん」


 口では御文通りじゃともいわるるが。信仰問題は、口先の話しや、文句の上の議論ではない。真実にお互いお互いの心の底を押さえて御覧。果たして口先通りの思いや心地が、あるかないか、恐らくは人知れず恥ずかしいことでもあろう。


 そこで仮に世間の人々の言葉に任せて。我々の心の上に、御文通りの味や心地が現れねば信心でないとしますか。それも随分面白かろう。
 
 
 たのめとあるで、たのむ思い。縋れとあるで、縋る心地。向かうとあるで、向かった味わい。一心一向とあるゆえに、一心一向。二心なくとあるゆえに、二心ない。決定とあるから、そりゃ決定。安堵とあるから、そりゃ安堵。
 
 
 何でもかんでも、御言葉通りと致しますか。
 そうすれば、まだ出て貰わねばならぬ、味わいや心地がありますぞ。
 それは何であるか、自力の捨て心か。
 それとも素よりじゃ、疑いの晴れた塩梅か。
 それもその通りまだあるまだある。後生助けたまへか。
 それも要ります。
 信心歓喜か、それも要る。
 その外にまだあるのか。
 あるともあるとも。
 然らば御恩報謝の思いか。
 それは後念じゃ、今の話しでない。
 
 
 一念の場合に、退っ引きならぬ大事の心地が出て貰わねばなりません。それは何であるか、篤と御文を御覧なさい、五帖目六通に。
「この大功徳を、一念に弥陀をたのみまうすわれら衆生に回向しましますゆゑに、過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて等。」
とあるからは、三世の業障一時に罪消えた心地も、確かに現れて欲しいのです。衆生が弥陀をたのんだ一念に、不可称不可説不可思議の、大功徳を与えまします。その大功徳を、与えて下された証拠には。三世の業障一時につみきえると、あってみりゃ。過去と未来は解らんとしても、現在がありますから。現在に罪や障りの消えた、心地がなくてはすみますまい。


 奥山の雪がきえたの、天井のネズミがいなくなったとは違います。常に見たことのない雪やネズミなら、消えても知らずにおることもあろうが。朝から晩まで起こりづめにしておる、我が胸の中の業障じゃもの。消えてしまったものならば、消えた心地がなくて何とします。御文通りとするならば、中途半途にしておかず。何処何処までも、御文通りにしますまいか。
 
 
 皆様はたのむ思いや縋る心地が、ありさえすれば。罪の消えた心地や、摂取せられた味わいは。無くともよいと、思うて御座るのか。それでは御文通りでありません。私はたのむ思いや縋る心地は、有っても無くても辛抱するが。出来る事なら、罪の消えた心地や、光明に摂め取られた心地が、出て欲しいのです。そうすれば結構なもので、欲も起こらず腹も立てず。妻や子供に用事無し、金銭家財は頓着なし。それこそは正定聚のくらい、又等正覚の心地になって。目出度い日暮が出来るで、あろうと思われます。サァ皆様は如何で御座る。
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