安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「15 帰するところは只の只」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

15 帰するところは只の只

 世間の人々の中には、只の只の御助けじゃとか、このままなりの御助けなどということを、非常に嫌い。そのような御言葉は、お聖教にないことである。浄土真宗は、雑行捨てて一心に弥陀をたのんだものでなければ、往生は叶わぬということは、代々の善知識の御定判である。雑行しながらこのままなり、疑いあってもこのままなり、たのむも信ずるも要らずして。只の只の御助けなどということは、聖教の所判になき外道の法じゃ。と、きつく破斥なさるる御方もあろうが。
 
 
 成るほどそれは御尤ものことで、さらに間違いのない御話しのようではあるが。しかし信仰の奥底から深く考えて見ると、実際はどういうものであろうか。
 
 若し阿弥陀如来が、自力を捨てて疑い晴れて、たのみ心を起こした衆生でなければ、助けられぬというような仏様なら。この世の親よりつまらぬ御慈悲に、成ってしまうということは、再三再四御話しを尽くしたことである。然るに、言葉に迷うて心を失い、大慈大悲の親様に対して。雑行雑修を捨てねばならぬとか、疑いあっては相済まぬなどというて御座る御方が。返って親様を、疑うて御座るのではなかろうか。そのような心持ちにて、おやりならるることならば。雑行雑修を御化導通り、御捨てになされたそのままが、矢張り自力疑心になり固まって御座るのであるかと思われる。


 全体只の只じゃの、このままなりということは。いかにも空漠のような言葉であるから。意味のとりように依っては、意外の間違いを発すことなれども。飽くまで只の言葉を嫌い、只で助かるなどということは、何処にあるかと力んで御座る御方に、私は返難して見たい。
 
 そもそも只でない御助けは何処に有るか。水難の時でも、火難の時でも、地震でも、首つりでも。いやしくも神聖に人を助けるという場合において。只でない御助けが、有ったら拝見つかまつろう。真の御助けなら、只にかぎったもので、只でなかったものならば、真の御助けではない。これらのことは智者や学者に問わいでも、馬鹿でも阿房でも知っておる。孟子の中に。

人皆な人に忍びざるの心有りと謂ふ所以の者は、今人乍ち孺子の将に井に入らんとするを見れば、皆な怵綃たる惻隠の心有り。
交りを孺子の父母に於いて内る所以に非ざるなり、誉れを郷党朋友に於いて要むる所以に非ざるなり、其の声を悪んで然るに非ざるなり。*1

http://goo.gl/2VZaSx

というてある、これはどういう意味であるかというに。

 子供が井戸の中へ落ちる相を見たときは。誰にも怵綃惻隠の心というて、可愛や気の毒やと思う心が起きて。必ず助けにかかるものである。この助けにかかるということは、子供の親から礼物を貰おうの、村内の人に褒められたいの。又助けずにいては、人に悪口いわれようかの、という意味でするのではない。ただ落ちる子供をみておるに忍ばれずして、助けにかかるのじゃという、孟子の説である。後生や仏法に縁のない儒者でさえ、人を助けるには只の只。人情として忍んでおられんから、助けるのじゃというてある。
 
 
 殊に他人と他人でない、親が我が子を助けるには、なおさら只の只でしょう。今度段違いとなったらどうであります。人間が、一段以下の畜生を助けるという場合には、たのむも縋るも要らばこそ、真実ただで助けてやるは当たり前じゃ。然るに今阿弥陀如来と我々は身分から言えば五十二段も違うておる。情実から言えば親と子じゃ。五十二段の上に増します親様が、可愛い衆生の我が子をば、助けましますことじゃもの。
 何とあっても只の只で、御助け下さるるに間違いないと。私は確信して、動かすことは出来ません。


 斯くの如く断言してしもうたら、皆様も驚いて。然らばこの度の往生には、雑行雑修は捨てずともよろしいか。自力もこのまま、疑いもこのまま、たのむも信ずるも只の只でよいのかと。難問なさる御方もありましょうが。皆様よ言葉の綱渡りも、大概のところでおよしなされて。静かに信仰のはらわたを据えて、考えて見てください。
 
 
 只で助けていただけばこそ、雑行雑修自力も捨たり。このままなりで御助けに預かればこそ、真から底からたのまれるのではあるまいか。それを只ではないと思うて御座られては、何時までたっても遠慮と気がねと心配は抜けませんから。先ず只で助かるに違いないと、腹をきめてから、御言葉を味わって御覧なさい。
 
 雑行捨てよと仰るも、只で助けるから雑行雑修の持ち物は要らぬぞの思し召し。自力捨てよもその通り、只で助けることゆえに。そちの自力は出すに及ばぬ。只の御助けなるが故に、疑いないぞ、只の御助けなるが故に安堵せよ。只なるが故にたのめよ、只なるがゆえにまかせよ、只なるがゆえに縋れよ、と仰せられたので。真実只でなかったら、雑行雑修自力を捨てて弥陀にまかせよなどといわるる訳のものではありません。
 
 田地や株券なら、欲得ずくで、我にまかせよともいわりょうが。動きのつかぬ借金を、我にまかせということは、只でないものの、言わる言葉でないでしょう。今はこの世の借金でない、動きのつかぬ後生をば、我にまかせよ、我をたのめよと。喚んで下さる親様の、腹底探って見たならば、只で助ける外はない。只で助ける親じゃゆえ、たのめまかせと言うたのじゃ。言うた御慈悲が知れてみりゃ、言葉や文句に迷いはない。
 
 只御助けの御六字を、只有り難や南無阿弥陀仏。

*1:孟子-公孫丑上[6] (現代文)この忍びざるの心というのは、幼児が井戸に入らんとするのを見れば、心配して気遣い、惻隠の心が自然と生じるようなものである。これが生じるのは、その幼児の父母と交わりを結びたいが為ではない、救って名誉を得るためにするわけでもない、救わぬことで不評を買うことを恐れたわけでもない、単に人の心に自然として来たるものなのである。